兵庫県立御影高等学校・同窓会「清明会」会報
創立70周年記念特別号
2015年10月吉日発行
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清明会創設70周年にあたって
清明会会長 道谷 卓(35 回生)
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本年5月2日に清明会会長に就任しました35回生の道谷卓です。清明会は、太平洋戦争下の昭和20年(1945)5月27日に、勤労動員中の宝塚にある川面神社で結成式が行われ、その産声をあげました。それから、今年でちょうど70年、人間で言えば古稀を迎えたことになります。
このような記念すべき節目の年に、清明会の会長として会員のみなさまのお世話をさせていただくことができ、とても光栄に思っております。微力ではありますが、会の運営のため、最善を尽くす所存であります。
さて、我が母校は、昭和16年(1941)に兵庫県立第三神戸高等女学校として設立され、途中、昭和23年(1948)に学制改革に伴い兵庫県立御影高等学校と校名が変更されましたが、今年で創立74年を迎え、28349人の卒業生を送り出してきました。そして、母校創立から4年後の昭和20年に清明会が発足しています。 |
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清明会発足当初、会長は学校長が兼務するという体制が敷かれ、卒業生が会長に就任したのは会発足8年後の昭和28年(1953)のことで、初代の学校長兼務の会長から数えると、このたびの私で13代目の会長就任と言うことになります。
なお、本誌は、清明会70周年を記念した会報誌「清明」の特別号です。清明会70年の歩みを振り返り、活躍する同窓生の紹介を中心に構成していますので、ご一読いただければ幸いです。
清明会70周年の今年、県下の学区再編が実施され、学区によっては最難関校と言われる高校が定員割れを起こすと言う状況になる中、母校はまずまずの結果が出たようです。今後も母校が受験生から選ばれる高校で有り続けるよう、同窓会としてさらなる支援をしていきたいと思います。
最後になりましたが、会員のみなさまにおかれましては、同窓会活動に対して一層のご支援を賜りますよう、よろしくお願いいたします。 |
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清明会員の皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
御影高校の同窓会である清明会は、太平洋戦争の戦局が厳しくなってきた最中、県立第三神戸高等女学校第1回卒業生の皆さんが、宝塚の川面神社に集まり結成され、終戦の4日後に第1回の総会を開催するという、現在では考えられないような中で生まれたと聞いてい
ます。その清明会が、今年、70周年を迎えられるとのこと、誠におめでとうございます。
清明会の皆様には、平素より、学内の施設・設備の充実、部活動への物心両面の支援など、現役生徒のために、一方ならぬご理解とご支援を賜り、職員生徒一同、大変感謝しております。
学校は、一昨年、耐震工事が完了し、昨年、念願の空調設備が整備されました。また、今年は、太陽光発電の設備が設置されるなど、この3年間で施設設備面はずいぶん充実しました。
生徒は、現在、68回生、69回生、70回生の3学年、1079名が在籍しており、その内の90%以上が部活動に入り、校訓の「清く 明るく 正しく 強く」のもと、文武両道の学校生活を送っています。 |
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また、学校行事にも積極的で、4月の定期戦を皮切りに、文化祭、体育祭、球技大会、耐寒登山などに精一杯取り組み、生き生きとした学校生活を送っています。それに伴って、最近は進学実績も右肩上がりが続いています。
兵庫県では、平成27年度から新通学区域を導入し、神戸市、芦屋市、淡路地区から本校を受験することが可能になりました。本校は、新学区の東の端にあるものの、中学生からの人気は高く、オープンハイスクールの来校者は、市内でも常に上位を誇っています。
今後も、御影高校は文武両道をモットーに、国際交流活動やボランティア活動などの多様な取組を通して、グローバルな社会に貢献できる人材の育成に励みます。
清明会の皆様には、今後とも後輩たちの活躍にご注目いただくとともに、本校教育にご支援ご協力をいただきますようお願い申し上げます。 |
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昨年度より松影会(PTAのOB・OG会)会長を仰せつかっております作花幸一と申します。
今年度清明会70周年を迎えるに当たり祝辞を寄稿させて頂くことになりました。
この70年を振り返ってみますと、戦後の混乱の中、日々の生活を営むにも大変な状況の昭和20年代の創生期、それを乗り越えた30年代の復興期、そして東京オリンピック・大阪万博が開催された成長期、昭和40年代の高度経済成長期、その後の第一次オイルショックがありました。この様な状況の中で常に発展をとげ、多方面で多くの清明会の方々が活躍される伝統を築き上げてこられました。
20年前の阪神淡路大震災では、本校は被害を受けながらも避難所として地域の被災された方々を多く受け入れ、地域に根差した高校としての存在意義を再認識しました。 |
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災害時、避難所となる本校の耐震工事早期実現と学習環境改善としての教室への空調設備設置を可能にすべく活動した折、県教育委員会への嘆願書提出にあたり、多くの清明会の方々にご協力を頂きました。その効果もあり、一昨年度の実現となりました。この場をお借りして、清明会の方々のご支援とご協力に深く感謝申し上げます。
又、我が子がこの伝統ある清明会の一員になれた事を喜ぶと同時に、誇りにも感じております。
最後になりましたが、清明会及び会員皆様のご発展とご多幸をお祈り申し上げます。 |
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創立70周年によせて
P T A 会長 森本 文美 |
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この度、清明会が創立70周年を迎えられますこと、PTA代表として、心からお祝い申し上げます。
清明会関係者すべての皆様に心よりお慶び申し上げますとともに、70年という歴史の中で、幾多の試練に耐え、誇るべき実績を積み上げ、輝かしい伝統を築いてこられた清明会の皆様方の並々ならぬ努力の成果に深く敬意を表します。
私は、子どもの入学を機に初めてP T A役員を引き受け、前々会長の下で1年、前会長の下で3年間、微力ながらお手伝いさせて頂き、昨年度より会長を引き継ぎました。
“現役の御影生をサポートする”という考え方をPTAと清明会は共有しております。 |
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これが、松影会を含む3会で構成される生徒活動後援会や国際交流協会を育んでいる源であると感じております。PTAといたしましては清明会を模範とするところが多く、同じように社会的使命を果たしてまいりたいと思っております。お互いの活動が、よい刺激となり、連携を保ち、生徒や学校、社会に貢献出来ることを願っています。
清明会が、ますます発展され、80年、90年と歴史を積み重ねていかれますこと、関係者の皆様のご多幸とご活躍を祈念し、お祝いの言葉といたします。 |
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御影の松を守り続けて
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世にあらば また帰りこむ 津の國の
御影の松よ 面かはりすな |
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昔、御影の浜は松原が続いていたようです。
藤原氏が全盛であった頃の道長の曾孫の藤原基俊(1060〜1142)は優れた歌人でした。その基俊が詠んだ和歌の前書に「病のため塩湯で湯治しようと攝津の國にへ行ったが、余り体調も良くならない。都への帰途、美しい松原に差しかかり、ここは?とたずねると、『御影の松』とのこと。そこでこの歌を作った」とあります。
基俊は、白砂青松の景色を眺めながらこの一首したためましたが、「津の國の御影」に「また帰りこむ」との志は遂げられませんでした。
西方寺の本玄関前の石碑には、この和歌と後世この基俊を慕って権中納言・藤原正房が詠んだ歌も併せて刻まれています。 |
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よみ置きし 松の言の葉 散りうせず
ふたたび千代の かげぞ栄えむ |
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藤山 宣基(45回生)
影松山西方寺住職
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わが母校のある御影は、古来からの景勝地として知られる「御影の松」がありました。この松は、『源平盛衰記』や『平家物語』にも登場し、先の基俊をはじめ、多くの貴族が訪れたと言われています。この松は、残念ながら明治時代に枯れてしまいましたが、二代目の松が、西方寺の境内に植えられています。御影高校の校章は、この『御影の松』の松葉三本をデザインされた旧御影町の町章と『高』の字を組み合わせたものです。
御影の歴史を伝える貴重なこの御影の松を守り続けております私は、西方寺第十四代住職・藤山宣基です。当寺院は、御影高校から南東に徒歩約10分の所にあります。江戸時代に創建された浄土真宗本願寺派(お西)のお寺です。幾多の戦火・震災を乗り越え門信徒のおかげでお念仏の御教えを今に伝え続けております。
私自身は、大学時代に父であります先代住職が思いがけず急逝し、大学卒業後すぐに住職を継職し、早や二十年になろうとしております。歴史の重みを感じながら、人と人とのつながり(ご縁)を大切にできるお寺でありたいと思っております。そして、伝統的な法要はもちろん、境内でコンサートやお寺で婚活など新しい行事にもチャレンジし、これからのお寺にふさわしい若い世代からご年配の方々までが集う、地域の皆さまと共に歩むお寺を目指して頑張っております。
母校の益々の発展を見守りつつ、御影のシンボル、「御影の松」をこれからも守り続けていきたいと思っております。 |
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〈藤山宣基プロフィール〉
1974(昭和49)年神戸市東灘区御影生まれ
1993(平成5)年兵庫県立御影高校卒業(45回生)
1997(平成9)年龍谷大学文学部真宗学科卒業
現在、浄土真宗本願寺派 影松山西方寺 住職 |
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御影高校・清明会の歴史
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学校の歩み |
清明会の歩み |
昭和16 |
2.6 |
文部省告示第51 号をもって兵庫県立第三神戸高等女学校設置 |

昭和19年頃 住女
校舎西側の空き地にて農作業 |
2.14 |
兵庫県立淡路高等女学校吉田卯一郎 学校長に補せられる |
4.1 |
仮校舎を兵庫県立第一神戸高等女学校内に置く |
昭和19 |
10.29 |
学校長吉田卯一郎 死亡 |
12.6 |
兵庫県視学恩賀一男 学校長に補せられる |
昭和20 |
1.15 |
仮校舎を神戸市灘区神戸市立高羽国民学校内に移す |
5.27 |
勤労動員中のため、宝塚市の川面神社境内において、清明会結成式挙行・会名の制定、会則の発表などを行う。 |
8.6 |
神戸市灘区勘太郎山に建設中の本校舎三棟空襲のために焼失 |
8.19 |
宝塚国民学校において、第1回総会開催。 |
昭和22 |
4.15 |
新制中学校を併設し、第2、第3学年に編入 |
1.1 |
清明会会誌「清明」創刊号発行。 |
昭和23 |
1.10 |
学校長恩賀一男 兵庫県学務課長に転任 |

昭和23年頃
住高の英字付の門標と
住高の校章 |
3.29 |
兵庫県住吉高等女学校長松下律太郎 学校長に補せられる |
4.1 |
学制改革により兵庫県立御影高等学校と校名変更 |
6.1 |
現在地(もと御影第二国民学校跡)に校地校舎を復興移転 |
7.1 |
併設中学校第3学年生徒の半数を兵庫県立芦屋高等学校と交換して男女共学を実施 |
9.1 |
同じく高等学校第1学年生徒の半数を交換 この年計14
学級 |
昭和24 |
4.1 |
兵庫県住吉高等学校を合併この年計13 学級、商業科設置
兵庫県公立高等学校学区制実施により、武庫郡御影町、魚崎町、住吉村を本校学区と決定 |
9.30 |
学校長松下律太郎 兵庫県立夢野台高等学校長に転任兵庫県立夢野台高等学校長井上義夫 学校長に補せられる |
昭和25 |
8.15 |
運動場完成 |
昭和26 |
11. 1 |
本館木造二階建一棟増築竣工 |
4.1 |
男子卒業生(高校3回生)入会。 |
12.25 |
体育館(第一体育館)竣工 |
昭和27 |
3.31 |
学校長井上義夫 依願退職 |
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4.1 |
兵庫県教育委員会事務局学事課長阿部道貫 学校長に補せられる 定時制併置県立御影高等学校に定時制(家庭課程)併置 |
昭和28 |
4.1 |
この年 第1学年1学級増 |
8.2 |
清明会会則改正、同窓生より選ばれる会長に、高島典子就任。総会を毎年8月第1日曜日に行うことを決定。 |
12.23 |
清明会主催、校歌制定記念ダンスパーティを神戸繊維会館において開催。 |
昭和29 |
4.1 |
商業科生徒募集停止 |
9.1 |
清明会発足10 周年記念誌として「清明」発行。 |
10.23 |
清明会発足10 周年記念、「市来崎のり子女史独唱会」を、神戸商工会議所において開催。 |
昭和30 |
3.31 |
本館鉄筋コンクリート造一棟増築竣工 |
5.14 |
清明会東京支部結成。 |
12.31 |
学校長阿部道貫 依願退職 |
昭和31 |
1.1 |
教諭小林宗和 校長事務取扱を命ぜられる |
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2.25 |
定時制課程第1回卒業式を挙行 |
4.16 |
兵庫県立三木高等学校長野中保一郎 学校長に補せられる |
昭和32 |
4.1 |
この年さらに1学級増、計28 学級 |
4.1 |
同窓会館建設資金積立開始。 |
昭和33 |
9.2 |
2月6日を学校創立記念日として制定、認可される |
8.3 |
会則一部改正。会長深田勝美、副会長川西倫就任。 |
昭和34 |
1.6 |
新館増築起工 |
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昭和35 |
3.31 |
学校長野中保一郎 依願退職 |
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4.1 |
兵庫県立尼崎高等学校長渡辺勲 学校長に補せられる |
9.15 |
屋内運動場(第二体育館)移転改築竣工 |
昭和36 |
11.6 |
20 周年記念式典挙行される |
11.3 |
学校、育友会、清明会、生徒会にて母校創立20 周年記念誌「20 年のあゆみ」発刊。 |
昭和37 |
3.31 |
学校長渡辺勲 依願退職 |
9.9 |
清明会幹事会運営規約なる。(効力発行) |
4.1 |
兵庫県教育委員会事務局社会教育課長 植杉英之助学校長に補せられる |
12.15 |
六甲山「山の家」(清明荘)用地確保、権利金同窓会支出。 |
5.26 |
ブロック二階建生徒会室、運動部室完成 |
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8.16 |
旧館水洗便所、普通教室6教室改築竣工 |
12.15 |
六甲山「山の家」建設地借用、建築準備に着工 |
昭和38
|
4.1 |
この年第1学年1学級増、計33 学級 |
3.2 |
新聞「清明」第1号発刊。 |
7.31 |
本館四階建増築竣工 |
8.3
|
山の家「清明荘」竣工。 |
8.3 |
六甲山山の家「清明荘」竣工 |
12.31 |
正門工事完成 |
昭和39 |
3.31 |
学校長植杉英之助・兵庫県立長田高等学校長に転任 |
9.3 |
清明会創立20 周年記念、「市来崎のり子女史リサイタル」を、神戸国際会館において開催。 |
4.1 |
兵庫県教育委員会事務局学校指導課長津田叶次 学校長に補せられる |
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4.18 |
育友会旧会員による松影会発足 |
昭和40 |
4.1 |
この年第1学年1学級減、計35 学級・プール建設着工 |
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昭和41 |
1.1 |
この年第1学年1学級減、計33 学級 |
11.24 |
母校創立25 周年記念誌「清明のわが学園」発刊。清明
会が参与。 |
6.6 |
プール竣工 |
11.24 |
創立25 周年記念式典挙行される |
昭和42
|
3.20 |
球技場完成 |
8.2 |
清明会名簿発行。(B5 版大型名簿第1号) |
4.1 |
この年第1学年1学級減、計31 学級 |
6.12 |
体育館兼講堂竣工 |
昭和43 |
3.30 |
スタンド工事竣工 |
8.4 |
会長深田勝美、副会長川西倫退任。新会長丹羽弘志、
副会長高城昌弘就任、新垣サチ再任。 |
4.1 |
この年1学級減、計30 学級 |
9.15 |
運動場塀新設工事竣工 |
昭和44 |
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8.3 |
清明会創立25 周年記念総会「相楽園」にて開催。 |
昭和45 |
3.31 |
特別教室建築竣工
学校長津田叶次 依願退職 |
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4.1 |
兵庫県立尼崎高等学校長小川武夫 学校長に補せられる |
昭和46 |
9.23 |
30 周年記念式典挙行される |
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11.16 |
学校長小川武夫、ワシントン州との学校提携のため渡米、姉妹校ウエストバレー高校を訪問 |
昭和47 |
3.31 |
学校長小川武夫 依願退職 |
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4.1 |
兵庫県立川西緑台高等学校長井上良信 学校長に補せられる |
7.26 |
初の交換留学生を姉妹校ウエストバレー高校の家庭に送る |
昭和48 |
8.14 |
姉妹校ウエストバレー高校の交換留学生初来校(9名) |
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昭和49 |
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8.1 |
清明会会則改正。 |
12.22 |
清明会創立30 周年記念音楽会「宮沢明子のピアノ演奏
とおはなし」を、神戸国際会館にて開催。 |
昭和50 |
4.1 |
学校長井上良信 依願退職
兵庫県立村岡高等学校長殿界美房 学校長に補せられる |
8.3 |
清明会総会(会費制導入)を、神戸貿易センタービル24
階レストラン「バーグ」にて開催(平成元年まで会場固定) |
昭和51 |
4.1 |
学校長殿界美房 兵庫県立加古川西高等学校長に転任 兵庫県立篠山鳳鳴高等学校長藤田輝男 学校長に補せられる
本年度定時制課程新入生より1学級減 |
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昭和53 |
4.1 |
本年度より定時制生徒募集停止 |
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昭和54 |
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8.3 |
清明会名簿発行。(B5 版大型名簿第2号) |
昭和55
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3.31 |
学校長藤田輝男 依願退職 |
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4.1 |
兵庫県教育委員会体育保健課長福井裕 学校長に補せられる |
9.22 |
南校舎棟(2号館)改築工事竣工 |
昭和56 |
3.31 |
定時制課程廃止 |
9.24 |
母校創立40 周年記念誌発刊。清明会参与。 |
4.1 |
この年第1学年1学級減、計29 学級 |
9.30 |
山の家「清明荘」閉館。 |
9.25 |
40 周年記念式典挙行される |
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昭和57 |
4.1 |
この年第1学年1学級減、計27学級(1年8、2年9、3年10) |
|
昭和58 |
4.1 |
この年第1学年2学級増、計27 学級(1年10、2年8、3年9) |
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12.15 |
格技場棟新築工事竣工 |
昭和59 |
3.31 |
学校長福井裕 依願退職 |
6.1 |
山の家「清明荘」売却、同窓会館積立基金別枠積立とする。 |
4.1 |
兵庫県立尼崎高等学校長北村幸夫 学校長に補せられる
この年第1学年1学級増、計29 学級(1年11、2年10、3年8) |
6.1 |
山の家「清明荘」売却 |
昭和61 |
2.13 |
部室改築工事竣工 |
|
昭和62 |
3.24 |
防球ネット工事竣工 |
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3.31 |
学校長北村幸夫 依願退職 |
4.1 |
兵庫県立三木高等学校長辻村豊治 学校長に補せられる
この年第1学年1学級減、計32 学級(1年10、2年11、3年11) |
10.14 |
本館棟窓枠・外装補修工事竣工 |
昭和63 |
4.1 |
この年第1学年1学級増、計32 学級(1年11、2年10、3年11) |
|
平成元 |
3.31 |
学校長辻村豊治 依願退職 |
8.25 |
清明会名簿発刊。(B5版大型名簿第3号) |
4.1 |
兵庫県立神戸聾学校長喜始彦明 学校長に補せられる |
平成2 |
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11.19 |
同窓会館を公募入札により、母倉工務店に決定。 |
平成3 |
3.29 |
テニスコートフェンス竣工 |
5.1 |
清明会入会金制度導入。 |
4.1 |
この年第1学年1学級減、計30学級(1年9、2年10、3年11) |
9.19 |
50 周年記念式典挙行される |
9.19 |
母校創立50 周年記念事業協賛。
総会にて、運営委員を4部制とし、各委員長選出。 |
10.10 |
清明会館竣工 |
10.10 |
同窓会清明会館竣工記念総会を清明会館ホールで開催。 |
平成4 |
3.31 |
プール改築工事竣工 |
11.1 |
総会にて、以後毎年11 月第1日曜日に清明会総会開催。 |
4.1 |
兵庫県立赤穂高等学校長 三木肇 学校長に補せられる
この年計28 学級(1年9、2年9、3年10) |
平成5 |
4.1 |
この年計27 学級(1年9、2年9、3年9) |
|
9.4 |
防球ネット改修工事竣工 |
11.20 |
空調整備設置工事竣工 |
平成6 |
3.30 |
運動場整備工事竣工 |
8.1 |
清明会会則改正。 |
4.1 |
兵庫県立明石清水高等学校長 大西堯哉 学校長に補せられる
この年計27 学級(1年9、2年9、3年9)
|
12.15 |
清明会名簿発行。(B5版大型名簿第4号) |
平成7 |
1.17 |
兵庫県南部地震により1,700 人本校に避難
(普通教室棟、屋内体育館、格技場棟) |
1.17 |
兵庫県南部地震により、学校が避難所となった為、清明
会館を臨時に職員用施設として使用。

平成7年
震災により校舎解体
|
4.1 |
生徒定員320 名 この年計26 学級(1年8、2年9、3年9) |
6.13 |
会長丹羽弘志逝去にともない副会長高城昌弘会長代行。 |
平成8 |
4.1 |
兵庫県立神戸高塚高等学校長 山口節夫 学校長に補せられる
生徒定員280 名 この年計24 学級(1年7、2年8、3年9) |
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平成9 |
3.31 |
校舎新築・復興工事竣工 |
9.25 |
高城会長代行、会長就任。 |
4.1 |
生徒定員280 名 この年計22 学級(1年7、2年7、3年8) |
9.25 |
校舎新築・復興工事竣工式典挙行される |
平成11 |
4.1 |
この年計23 学級(1年8、2年8、3年7) |
7.25 |
清明会名簿発行。(B5版大型名簿第5号) |
平成12 |
4.1 |
生徒定員320 名 この年計24 学級(1年8、2年8、3年8) |
1.26 |
清明会ホームページ開設 http://www.seimeikai.com |
平成13 |
4.1 |
生徒定員280 名 この年計23 学級(1年7、2年8、3年8) |
11.4 |
母校創立 60 周年記念祝賀会、清明会記念総会。 |
11.4 |
創立60 周年記念式典挙行される |
平成14 |
4.1 |
兵庫県立佐用高等学校校長 伊東義矩 学校長に補せられる
生徒定員280 名 この年計22 学級(1年7、2年7、3年8) |
|
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平成15 |
4.1 |
生徒定員280 名 この年計21 学級(1年7、2年7、3年7) |
2.22 |
清明会臨時総会開催。会則改正、役員改選、会長新戸建男、
副会長杉村泰就任。 |
6.1 |
清明会総会。以後毎年6月第1日曜日に清明会総会開催。 |
平成16 |
4.1 |
生徒定員280 名 この年計21 学級(1年7、2年7、3年7) |
6.6 |
清明会総会。第1回ホームカミングディ開催。 |
12.6 |
兵庫県立御影高等学校資料室(清明会資料室)開設。
|
平成17 |
4.1 |
兵庫県立明石城西高等学校長 小林兼一郎 学校長に補せられる
総合人文類型(定員40 名)を設置する神戸第一学区に加え、芦屋学区を校区とする生徒定員320 名 この年計22 学級(1年8、2年7、3年7) |
1.25 |
清明会名簿発行。(B5版大型名簿第6号) |
6.5 |
清明会発足60 周年記念総会・第2回ホームカミングディ
を御影公会堂にて開催。
|
平成18 |
4.1 |
生徒定員280 名 この年計22 学級(1年7、2年8、3年7) |
6.4 |
清明会総会。会則一部改正。副会長柏木英郎就任。
第3回ホームカミングディ開催。
清明会60 周年記念誌「清明史」発刊。 |
平成19 |
3.15 |
体育館耐震工事竣工 |
6.3 |
清明会60 周年記念誌「清明史」発刊。 |
4.1 |
兵庫県立豊岡高等学校長 野邊孝光 学校長に補せられる
総合人文コース(総合人間関係コース・定員40 名)を
設置する。
生徒定員320 名 この年計23 学級(1年8、2年7、3年8) |
9.10 |
高井美紀氏(38 回生)の在校生への講演会を御影公会堂にて開催。 |
平成20
|
4.1 |
生徒定員320 名 この年計23 学級(1年8、2年8、3年7) |
4.2 |
故中久木先生(美術)の遺作絵画の寄贈受領。 |
6.1 |
清明会総会。会則一部改正。第5回ホームカミングディ開催。 |
7.8 |
寄贈絵画常設展示(清明会館2階) |
9.29 |
赤堀富子氏(22 回生)の在校生への講演会を御影公会堂にて開催。 |
平成21 |
4.1 |
兵庫県立洲本高等学校長 藤井義一 学校長に補せられる
生徒定員360 名 この年計25 学級(1年9、2年8、3年8) |
6.7 |
清明会総会。会則改正。役員任期満了により、新役員は会長萩原孝治郎、副会長横尾能範、同有馬駿一となる。
第6回ホームカミングディ開催 |
11.1 |
清明会名簿発行(A4版大型名簿第1号) |
平成22 |
4.1 |
生徒定員360 名 この年計26 学級(1年9、2年9、3年8) |
6.6 |
清明会総会・第7回ホームカミングディ開催
(会場を御影公会堂からホテルプラザ神戸に変更し開催) |
平成23 |
4.1 |
兵庫県立宝塚西高等学校長 松田義人 学校長に補せられる
生徒定員320 名 この年計26 学級(1年8、2年9、3年9)
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6.5 |
清明会総会・第8回ホームカミングディ開催
(会場を生田神社会館4階に変えて開催) |
11.21 |
創立70 周年記念式典挙行される |
11.21 |
御影高校 創立70 周年記念式典開催(神戸文化ホール
大ホール)
(記念事業実行委員長として清明会 萩原孝治郎 会長が推進) |
平成24
|
4.1 |
生徒定員360 名 この年計26 学級(1年9、2年8、3年9) |
4.28 |
清明会副会長 有馬駿一退任
清明会副会長に櫻間光彦(25 回生)就任
清明会会則一部改正
(役員)第6条 常任幹事の定数20 を25 に訂正する。 |
6.10 |
清明会総会・第9回ホームカミングディ開催
(会場 生田神社会館大安のため披露宴あり、総会を第二日曜に変更開催) |
平成25 |
4.1 |
芦屋国際中等教育学校長 林 啓司 学校長に補せられる
生徒定員360 名 この年計26 学級(1年9、2年9、3年8) |
6.5 |
高井美紀氏(38 回生)、在校生 総合人文コース1・2年
生対象に講演会を御影公会堂で開催。テーマ:未来につなごう「ことばの力」 |
8.31 |
普通教室棟 耐震工事竣工 |
6.8 |
清明会総会・第10 回ホームカミングディ開催 |
平成26 |
4.1 |
生徒定員360 名 この年計27 学級(1年9、2年9、3年9) |
6.1 |
清明会総会・第11 回ホームカミングディ開催 |
8.31 |
本館棟・普通教室棟 エアコン工事竣工 |
平成27 |
4.1 |
生徒定員360 名 この年計27 学級(1年9、2年9、3年9) |
5.2 |
会長 道谷 卓就任、副会長 柳本 勇治就任 |
6.12 |
清明会総会・第12 回ホームカミングディ開催 |
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歴代 清明会会長・副会長
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昭和20年5月27日 |
初代会長 |
恩賀 一男(校長) |
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昭和23年3月29日 |
第2代会長 |
松下律太郎(校長) |
昭和24年9月30日 |
第3代会長 |
井上 義夫(校長) |
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昭和27年4月1日 |
第4代会長 |
阿部 道貫(校長) |
昭和28年8月2日 |
第5代会長 |
高島(横田)典子(県三1)同窓生初代 |
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昭和33年8月3日 |
第6代会長 |
深田 勝美(高校3) |
副会長 |
川西 倫(高校4) |
副会長 |
新垣 サチ(高校1) |
昭和43年8月4日 |
第7代会長 |
丹羽 弘志(高校4) |
副会長 |
新垣 サチ(高校1) |
副会長 |
高城 昌弘(高校8) |
平成7年6月13日 |
第8代会長 |
高城 昌弘(高校8)会長代行 |
平成9年9月25日 |
第8代会長 |
高城 昌弘(高校8) |
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平成15年2月22日 |
第9代会長 |
新戸 建男(高校14) |
副会長 |
杉村 泰
(高校4) |
副会長 |
柏木 英郎(高校12) |
平成18年6月4日 |
第10代会長 |
新戸 建男(高校14) |
副会長 |
杉村 泰
(高校4) |
副会長 |
柏木 英郎(高校12) |
平成21年6月7日 |
第11代会長 |
萩原孝治郎(高校24) |
副会長 |
横尾 能範(高校10) |
副会長 |
有馬 駿一(高校14) |
平成24年4月28日 |
第12代会長 |
萩原孝治郎(高校24) |
副会長 |
櫻間 光彦(高校25) |
平成27年5月2日 |
第13代会長 |
道谷 卓(高校35) |
副会長 |
柳本 勇治(高校26) |
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菊池 廉也(17回生)
モノづくりを通した教育
STEM R o b o t i c s 教育主宰
( S c i e n c e T e c h n o l o g y
E n g i n e e r i n g M a t h e m a t i c s
w i t h R o b o t i c s ) |
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世界の子供たちの創造力・問題解決能力を向上してもらいたい! |
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私は御影高校(17回生)を卒業して東京での大学生活を過ごした後、長い間I T 企業の代表として、グローバルなフィールドに従事してきました。そして何か後世にも継がれるものは何かと思った時、それは世界の子供たちへの教育も一つだと思うようになりました。約20年前に「ブロックなどを教材として使用した手を使って実際にモノづくりをし、楽しみながら学ぶ塾」などを開いて国内で展開してきました。その後外国からも声がかかり数年前から、日本の得意芸であるロボット技術の分野も教育に取り入れ、インド・米国・シンガポール・スリランカ・タイ・中国へと拡大しました。今後中東・欧州へと広げる計画です。 |
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特にインドでは子供たちが多く( 日本の10倍以上の人口ですから)しかも学校不足と生活苦により学校へ行けない子供たちも多い中(子供たちは携帯電話はもっているが靴は履けないという状況)、苦労は絶えませんが主要都市で学校の授業の一部として私たちの教育手法が導入されて、生徒数も何万人というレベルになっています。日本の様に裕福ではありませんが、目の輝いた子供たちが多く(学校のスクールバスが1校で100台以上というのにもびっくり)、その将来は日本どころかその10倍以上の豊かな(金銭的なものではなく、心と技術など)人々へと成長していくだろうと思えるようになりました。
私も70歳を目の前にして、これらの世界の子供たちがさらに輝けるようにとまだまだ世界中を飛び回っています。 |
Profile |
御影高校(17回生)、学習院大学理学部を卒業し、米国系コンピュータ企業(現 日本ユニシス(株))、米国系コンサルティング企業(現 PWC プライスウオータハウスクーパース)を経てITシステム開発企業代表取締役(現在も継続)、20年前に子供達への教育事業会社(株)ラーニングシステムを立ち上げ代表取締役として就任し、レゴブロック・ロボットなどの教材を使っての子供たちへの教育(問題解決能力・創造力・表現力向上)を塾形態で国内全国で展開しました。
数年前から外国からの多くの問い合わせにより既に数カ国へ展開しています。 |

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韓国KBS 釜山との定期会議で
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植木 豊(34回生)
N H K エデュケーショナル
科学健康部 統括部長 |
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ガッテンしていただけましたでしょうか |
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20年を迎えたN H K「ためしてガッテン」。この番組の立ち上げは震災の時と重なります。企画に参加した矢先に起きた未曽有の災害。神戸からの悲痛な声が私たちの仲間によって日々報道される中、楽しくて役に立つ番組なぞ作っている場合なのか、自問自答が続きました。それが、気が付けば誰
もが知っている長寿番組に。
大学院で人工心臓を研究し、研究職になるつもりが、大好きなテレビに科学番組というジャンルがあることを知ったのが運命の分かれ目。 |
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以来ディレクター、プロデューサーとして、科学だけでなく「その時歴史が動いた」や美術、教育、紀行番組など、“ドラマ”と“紅白”以外は何でもやってきました。最近はアニメ「ピカイア!」を制作。生命進化と多様性の大切さを子供たちに伝えています。
僕らの仕事は流れては消えていくもの。そんな刹那的な仕事を支えるのは、文化を創っている自負と皆さんが何か一つでもガッテンしていただければという思いです。 |
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ウガンダロケ・コーディネーターの
ピーターと |
ガッテンのスタジオでの記念写真 |
まるかじり!アジアン食堂MC
たむらけんじさんと |
Profile |
早稲田大学大学院理工学研究科修了 |
主な番組 |
1988年N H K入局 |
「ためしてガッテン」「その時歴史が動いた」「夢用絵の具」「ハローニッポン」「上海WAL KE RS 」「ハツラツ道場」「モリゾー・キッコロ森へいこうよ!」「科学大好き土よう塾」「解体新ショー」
「I Tホワイトボックス」「すイエんサー」「マリー&ガリー」「まるかじり!アジアン食堂」「えぇトコ」「名作ホスピタル」「コズミッ
クフロント」「ピカイア!」など |
大阪放送局を経て科学環境番組部で科学番組のディレクター、
2004年よりチーフプロデューサー
現在N H Kエデュケーショナル科学健康部統括部長 |
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毛利 多恵子(28回生)
開業助産師 毛利助産所所長 |
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人がうまれ人が母となることを助ける仕事 |
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御影高校近くの助産所で生まれ育ち、毎日高校生が走る姿を目にします。ハイリスクの母子を対象とする病院や総合病
院で臨床を10年した後、大学院に進学し大学の教員として看
護学生や助産学生の教育にかかわりました。しばらく東京に
いましたが、神戸の大震災により母が開業した助産所が全壊し、再建のため神戸に戻ってきました。
助産所のお産はたった1% ですが、家のような空間で家族とこどもの誕生を自然な営みとして迎えたい方々の妊婦健診、分娩介助、産後の母子ケアをしています。 |
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最近は病院を退院後、助産所で1週間過ごす産後入院システムも始めています。また小学生や中学生を対象に性教育にも取り組んでいます。ブラジルやボリビアなどの国際医療協力活動も経験することができました。言葉を超えて海外の母子や医療従事者と共感できる経験はとても意義深いものでした。助産の研究を主とした日本助産学会の理事として活動し、実践と研究がリンクすることを目指しています。赤ちゃんが生まれる「その時」が大切にされ、心から幸せと思えるお産体験となるよう支援していきたいと思います。 |
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助産学会学術集会長を経験 |
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オーストラリア看護大学生の見学実習を受けて |
Profile |
<学歴> |
<社会的活動、国際協力活動> |
1982年 |
聖路加看護大学卒業 |
1998年〜 |
J I CAブラジル母子保健プロジェクト短期専門家および長期専門家 |
1994年 |
聖路加看護大学大学院修了 |
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J ICAブラジル国別特別研修国内委員 |
<臨床> |
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ラパス母子保健プロジェクト短期専門家 |
1982年 |
大阪府立母子保健総合医療センター
助産師 |
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J ICA母子保健・ リプロダクティブヘルス課題別委員会委員 |
1988年 |
東京都教職員組合三楽病院 助産師 |
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A M DAと日本助産学会共同のネパール国母子保健研修企画運営 |
1997年 |
毛利助産所 助産師 現在に至る |
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<教育> |
<学会・職能団体活動> |
1984年 |
京都市立看護短期大学(2年) |
2006年 |
一般社団法人日本助産学会 理事 |
1994年 |
聖路加看護大学講師(3年) |
2009年 |
公益社団法人日本助産師会 副会長 |
2005年 |
天使大学専門職大学院教授(兼務3年) |
2012年 |
一般社団法人兵庫県助産師会理事、副会長 |
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ANA初の女性役員
新居 勇子(31回生)
全日本空輸株式会社
執行役員 大阪支店長 |
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「あんしん、あったか、あかるく元気!」 |
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中学生時代は良く勉強していたのですが、その反動なのか高校に入学してからは勉強は手につかず、唯一部活動(剣道部)だけは、熱心に取り組んでおりました。また、校則順守のご指導以外は、自由奔放に育てていただいたお蔭で、とても伸び伸びと、明るく楽しい高校生活を送らせていただきました。三年生になって志望校を決める頃、大親友から「航空会社のグランドホステスになりたい」と聞き、私も興味を持ち、今の会社に就職しました。その年は残念ながらグランドホステスの募集はなく特定地上職という一般職で、入社当時はこんなに長く、しかも総合職に転換することになるとは想像もしていませんでしたから、人生って本当におもしろいなと思っております。神戸、大阪、名古屋、
大阪、東京に転勤し、現在三回目の大阪勤務です。 |
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仕事は、大阪支店長兼西地区担当で、関西・中四国地区の営業責任者として日々奔走しております。具体的には各地区の財界や行政の方々に自社便をご利用いただけるようセールスし
たり、イベントへの協賛や参加で自社のアピールをしたりしています。先日、甲子園球場で協賛し、始球式で投げたのですが、そのおかげで三十五年間音信不通で心配していた剣道部の同級生に、球場のラウンジで声を掛けられ、その後私から同窓生達に連絡し、皆と再会を果たすことができたようです。卒業後、初めて皆のお役に立てた気がして嬉しかった出来事でした。御影高校の校訓である「清く明るく正しく強く」は、人として大切な姿勢であると社会人を長年経験し、改めて感じております。ANAの社風は「あんしん、あったか、あかるく元気」です。この二つの精神をこれからも大切に、自分の軸にしていきたいと思っています。 |
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Profile |
1979年 |
全日本空輸株式会社入社 |
2010年 |
大阪支店 副支店長 |
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営業本部大阪支店神戸営業支店に配属 |
2011年 |
東京支店 副支店長 |
2002年 |
西日本販売カンパニー第一販売部販売促進課 セールスマネジャー |
2014年 |
執行役員 大阪支店長 西地区担当 |
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大阪支店国際販売部企画販売課 セールスマネジャー |
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2005年 |
名古屋支店営業部国際販売課 セールスマネジャー |
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2006年 |
ANAセールス株式会社(名古屋)へ出向 |
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2009年 |
ANAセールス株式会社(大阪)へ出向 |
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過去10年にわたりご紹介してきましたわが母校の達人。
その総集編です。各方面で皆様活躍されております。
改めておたのしみ下さい。 |
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六甲山への思い |
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安部美津子
(3回生(県3併中1回卒)旧姓小早川) |
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“東京には山がない”、海がない。55年前東京に移り住んだ際の私の嘆きでした。大学院以降の研究の対象として、河川水、温泉水、雨水、海水、そして南極のいろいろな形の水を、後には水に関する環境問題を扱ってきました。退職後の今、趣味として続けている油絵では、山を画きたいとの思いから、ここ数年毎夏ヨーロッパアルプスに出かけています。高校時代迄を過ごした阪神間の山も海もあったのどかな自然へのこだわりが、私の中に脈絡と続いていることを感じています。 |
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■ Profile ■
東京都立大学卒業(理学博士)
科学研究部に勤務(1966〜1997)
その間、中央大学等にて非常勤講師を務める(1985〜2003)
ユネスコ政府間海洋学委員会に参加(1975〜1982)
専門家会議のメンバーを務める(1978〜1982) |
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【2006年掲載】 |
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アットホームでハッピーなひとときを |
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石川 益光(11回生) |
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17年度ホームカミングデイの司会は47年ぶりの御影公会堂の舞台、文化祭での「学年劇」出演を思い出します。カーディーラー在職中、宣伝担当として、社内外で様々なイベントの企画、司会を務め、母校すぐ近くのフォルクスワーゲンのお店では、63ヶ月毎月サロンコンサートを続けておりました。客席と出演者を優しくつなぐ、ホットな司会と、ドラマチックなナレーションを目下の本業としています。 |
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■ Profile ■
フリー司会者、神戸芸術文化会議会員
オペラ、新日本舞踊などのナレーション、ディナーショー、サロンコンサートの司会。目下、中国人童謡歌手李広宏氏と、日中友好のコンサートを全国に展開中。30代で、吉村派小唄の会の幹事も務めた。 |
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【2006年掲載】 |
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同窓生はいいもんだ! |
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大森 重志( 10回生) |
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10回生の同窓会や旅行会は最近毎年のように企画され、そのほとんどに参加させていただいております。これも一重に幹事さんたちのお陰と感謝しています。
また定年後は趣味のジャズバンド活動や水彩画などの個展を通じて、先生方や同級生はじめ後輩のみなさんと親しくお話する機会にも恵まれ楽しい時間を過しています。
神戸市長の矢田さんとは同じ教室で机を並べていたこともあって、彼を囲む会にもバンド出演し、会の盛り上げ担当に一役買っています。なにはともあれ、同窓生は、会えば高校生時代にタイムスリップしたようで、とてもいいものですね。 |
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■ Profile ■
京都市立美術大(現・芸大)卒
1962年からサントリーデザイン部にてパッケージとグラフィックのデザイン制作。
1977〜98デザイン部長。2000年定年退職。 |
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【2007年掲載】 |
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達人未満 |
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岩田 達宗(33回生)
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■ Profile ■
岩田達宗(いわたたつじ)
オペラ演出家。神戸市出身。東京外国語大学フランス語学科卒業。
大学卒業後、劇団「第三舞台」を経て、舞台監督集団「ザ・スタッフ」に参加。
オペラの舞台製作にかかわる。'91年より栗山昌良氏に演出助手として師事。
'96年五島記念文化賞オペラ新人賞を受賞。'98年より2年間、ドイツ、イギリスを中心にヨーロッパ各地を遊学、研鑽を積む。
帰国後、本格的にオペラ演出家として活動を始める。日生劇場、新国立劇場、びわこホール、コレギウム・ムジクム、藤沢市民オペラ、神戸市演奏協会、大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウス、広島オペラルネッサンスなど各地のオペラ・プロダクションで作品を発表し高い評価を得る。
なかでも'03年に堺シティオペラでのブッチー二作曲「三部作」、'05年いずみホールでのプーランク作曲「カルメル会修道女の対話」は、同年の音楽クリティック・クラブ賞、大阪府舞台芸術賞を受賞。同じく堺シティオペラ「三部作」と愛知万博開催記念オペラ新実徳英作曲「白鳥」は佐川吉男賞を受賞。2006年には自身が、オペラ演出家として初めてとなる音楽クリティック・クラブ賞を受賞。
またソプラノ佐藤美枝子とのコンビによるモノオペラ「幻想のルチア」、尾崎比佐子プロデュースによる「ロメオとジュリエッタ」、三木稔作曲「幸せのパゴダ」などの少人数による実験的な小劇場オペラでは台本も担当。好評を得て全国を巡演中。
最近の主な演出作品は、びわこホール夏のビエンナーレオペラ「ミニヨン」。
日本オペラ協会「美女と野獣」。藤原歌劇団「ラボエーム」。全国各地のオペラ公演を成功に導いている多忙を極め『行列のできる演出家』と言われている人気演出家である。現在、相愛大学、昭和音学大学大学院、日本大学藝術学部で講師を勤める。
※岩田達宗氏記事掲載については、オペラ歌手太田裕子さん(36回生)にご
紹介頂きました。(深田勝美3回生) |
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「達人」という題目の原稿依頼を受け困り果てた。
私はオペラ専門の舞台演出家です。現場の下積み、助手などの長い月日を経て、デビューしてまだ数年。年齢は45歳と中年だが、経歴には必ず、「新進気鋭の」とか、「若手の」と付いてくる。
達人には程遠い。ですが、ただ―
オペラは楽譜という唯一の手懸りから、莫大な労力、時間、費用をかけて創られる舞台です。だから楽譜を遺した先人達への尊敬なしには何もできません。私は凡人ですが、偉大な先人に対する尊敬の篤さだけは達人の域だと思います。
2000年オペラ演出家として本格的に国内で活動を始める。その後、日本各地のオペラ団体、劇場で作品を発表。そのかたわら幾つかの音楽大学で、後進の指導にあたっています。 |
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【2006年掲載】 |
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多目的人生の挑戦 |
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中井 勉(10回生) |
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人生の目的は人のためになる事、そのための努力を惜しまぬ事である。私は30才で働きながら最難関の司法試験を志した。10年の苦闘で司試論文試験に合格、更に平行して行政
書士、経営コンサルタントの資格をとった。仕事は係長から課長へと昇進した。家族特に妻の協力のおかげであった。目下、法務コンサルタント、日本茶アドバイザー、歴史推理作家として発展的に生きている。 |
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■ Profile ■
兵庫農科大学(神戸大学農学部)卒業
京都大学大学院法学研究科にて商法の研究
司法試験論文試験合格
孫文生誕100周年記念論文入選(中華民国)
○ 主な著書
「橋立の壷は残った」(滋賀県文学賞)
「隠れキリシタン佐々木小次郎」(叢文社)
「生きる兵法者武蔵異聞」(新風舎) |
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【2009年掲載】 |
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趣味・奉仕・事業 |
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横尾 能範(10回生) |
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高校の放送部の頃から好きだったエレクトロニクス技術が、進学先の研究室で認められ、大学に残って実験や研究に参加。その後、助手となり後には自分の研究にそれを役立てました。当時、学内に唯一導入されたコンピュータに挑戦して情報化時代の波に乗り、アマチュア無線のために励んだ英語が生きて海外派遣の機会にも恵まれました。大学を退官後は、無線クラブの会長など趣味を通じて遊ぶ傍ら、世話になった各種団体に特技のデータベースで奉仕をしつつ、退官前後に起業した介護事業の運営を受け持つなど、余力を三等分して、それぞれに全力を尽しています。 |
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■ Profile ■
神戸大学名誉教授・医学博士。
現・グループホームなど介護関連事業「シニアケア」代表取締役。
神大教育学部へ進学後、同大教官となり騒音と発育や学習などの環境問題や情報教育に従事。
1984年から国際協力機構(JICA)の派遣専門家としてコンピュータ教育や医療協力のためマレーシア、タイなどに2年間在住。 |
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【2009年掲載】 |
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〜スーパー保育士参上! 〜 |
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原坂 一郎(27回生) |
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小さな頃から小さな子どもが好き(笑)でした。
関西大在学中に法律が変わり、男性に保育士資格が認められ、「これだ!」と思い、独学で資格を取得。神戸市の採用試験を受け、晴れて男性保育士1期生に。
保育の世界は、音楽も体育も絵やマンガも、そして何より子どもが大好きな私にぴったりの世界でした。23年間の間に子どもたちからたくさんの笑顔と教えをもらい、その恩返しをすべく、今は子どもに教えてもらった数々のことを子どもに代わって全国に伝えていっています。今でも「気持ちは子ども」どころか「すべてが子ども」の私。きょうも奥さんに怒られています(笑)。
愚息も昨年、無事貴校を卒業でき、親子で通えた幸せをかみしめています。
また、毎年教育セミナーや家庭科の授業などでお呼びがかかり、貴校の教壇に立たせていただいており、母校で講義ができる幸せを味わっております。 |
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■ Profile ■
1981年神戸市に採用され、御影高OB初の男性保育士になる。メディアからは「スーパー保育士」と呼ばれ、2004年KANSAIこども研究所を設立。こどもコンサルタントになり、「テレビ寺子屋」(フジTV)始め、さまざまなメディアで活動。子育てに関する講演では全国500か所以上を駆け巡る。
「笑い」にも造詣が深く、現在日本笑い学会理事を務めながら、関西国際大学他で「教育と笑い」に関する授業を持つ。
大の怪獣マニアで、「怪獣博士」として子ども時代から現在まで数々のTVに出演。ウルトラマンを模した自身の研究所はランドマークにもなっている。 |
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【2010年掲載】 |
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日本の音色"箏"と共に |
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三輪 治子(柴田)(6回生)
■ Profile ■
箏曲師匠(大師範)
当道楽友連盟会員(理事)
関西邦楽教育振興会会員
神戸三曲協会会員
県立御影高等学校卒
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箏曲部の指導を師匠(前田先生)から引き継ぎ早や20余年になります。箏曲部の歴史は永く、県三時代からあったとのことです。私自身も箏曲部で活動し、卒業後箏曲の道に入りました。そして何十年か経ち指導に学校に行くようになり部員の皆さんと共に、楽しくまた厳しく合奏練習をしたり、おしゃべりをしたりと沢山の思い出が出来ました。部の卒業生には私自身の演奏会にも出演して下さった方も多くあり、現在弟子として一緒に活動してる方もあります。
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昨春入部する人がなく「箏曲部消え入りなむ! !」と思っていましたら9月に1年生2人が入部してくださり、先生2人と共に猛練習をし、秋のオープンハイスクールに、はりきって良い演奏が出来たこと、とってもうれしかったです。 |
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【2010年掲載】 |
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俳句は季節の詩 |
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和田 華凛(後藤美加)(39回生) |
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俳句は5・7・5のたった17文字の詩ですが、この5・7・5というリズムは、標語などにも見られますように、聞く人の脳や心にすっと入ってきて覚えやすいリズムと言われています。
また、俳句は天然界の、事象(植物・花・食べ物など)や人事界の事象(節分、ひな祭りなど)を季語に入れて詠むので、俳句を作ったり読んだりする事で、日本の四季を感じることができます。
私と俳句の関係は、実家が俳誌「調詠」を60年にわたって続けているので子供の頃から身近に俳句がありました。
本格的に句会や投句を始めたのは、娘が中学に入学して子育ての一段落した4年ほど前からです。
俳句は一生懸命物を見て、聞いて心の中を柔軟にして感じた事を詠むので感性が豊かになり、心にも脳にも良い影響があるようです。
脳神経外科医の主人も俳句を作る事で脳が活性化するのではないかと、勧めてくれます。
自然に触れるため、吟行句会などではかなり歩き回るのでよい運動となり俳句をしている方はかなり実年齢より若く見える方が多いようです。
現在、俳句は高齢者の趣味というイメージが強いのですが、俳句の師である松尾芭蕉先生曰く「俳譜(俳句)は三尺(7・8歳)の童にさせよ」というように、俳句を作るのに最も適しているのは小学校3・4年生の子供だそうです。
この年頃の子供の感性が素晴らしいからでしょう。私も将来を担っていく子供達が日本の四季を感じる心や日本語という美しい言葉を大切にしていくことが今必要だと思っています。
2010年は、今までの活動の他に、地域の子供達に俳句の読み聞かせや夏休み俳句教室を行っていきます。
また3月から六甲アイランドのカナディアンアカデミーの特別講師として俳句の授業を行っています。
俳句という季節の詩を、5・7・5のリズムに言葉をのせて詠むことで今までとは違った日常の美しい季節の風景が目に映ってくる事と恵います。 |
■ Profile ■
本名和田美加1968年9月5日生まれ。
県立御影高校、関西学院大学法学部政治学科卒業
俳誌「謁詠」同人同誌主宰後藤比奈夫を祖父、副主宰後藤立夫を父とし師事する。
俳誌「ホトトギス」誌友。
大人の女性の趣味の会「神戸華の会」主宰。
六甲アイランドタウン誌「リック・ウィンズ」今号の一句掲載中
NHK文化センター西宮ガーデンズ「俳句で毎日新鮮に」アシスタント
2010年は今までの活動のほかに、カナディアンアカデミーにて特別講師として俳句の授業を実施。また、地域の子供達への俳句の読み聞かせや夏休み俳句教室を実施活動予定中。
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【2010年掲載】 |
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新聞記者歴20年 |
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陳 友c(ちんゆういく)(39回生) |
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新聞記者になって、スポーツ取材の仕事に携わるようになって、この春で通算15年になります。事件担当や地方勤務も経験しましたが、学生時代から、スポーツをするのも見るのも好きだった私にとって、今の仕事が一番合っているジャンルです。
勤めているのは兵庫県内で発行する地方紙です。スポーツの中でも兵庫県にゆかりのある選手やチームを中心に報道します。私自身、数年前から総合体育大会や国民体育大会の紙面づくりを担うようになり、県内のスポーツの中でも中学、高校の部門に携わる機会が増えています。
兵庫県では、毎年5、6月にかけて県高校総体が行われ、約
30競技が一斉に熱戦を繰り広げます。サッカー、バレーボール
ど各競技の成績では、母校の名前も数多く出てきます。上位に勝
ち進んでいる競技があるのを見つけると、少しうれしい気分になります。
大会が始まると、取材、紙面製作の作業量が一気に増え、あわただしくなります。大会の会場には足を運べませんが、紙面づくりの作業をしながら、今年も「御影」の各部活動が多くの大会で活躍してくれることを期待しています。 |
■ Profile ■
聞社入社。編集局運動部、同社会部、北播総局西脇支局を経て、現在は編集局
運動部次長兼解説委員。阪神・淡路大震災発生当時は社会部に在籍、震災報道に携わる。 |
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【2010年掲載】 |
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40歳過ぎてからのピアニスト |
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山村 敦子(沢田)(27回生)
■ Profile ■
ピアノ専攻卒業
2002年ピアノデュオグループ「CANO」を結成し、2台のピアノによるデュオコンサートは来年2012年に第5回目を開催予定。2010年10月群馬で2台のピアノデュオでサロンコンサート開催。
またボランティアとして病院、視覚障害者、デーケアサービスの方々の会で演奏している。
故三根冬子、武藤秋、セルヴァンスキー、各氏に師事。現在ペースメソッド研究会員。 |
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音大のピアノ科を卒業してすぐ23歳で結婚、2人の息子が誕生し家事と子育てに追われる毎日でした。息子たちの通っている学校の父母会などでピアノを弾いてほしいという依頼を受ける機会は何度かありましたが本格的な演奏活動はしていませんでした。
ようやく子どもから手がはなれた40歳を過ぎたころから友人で同じく27回生オペラ歌手の濱崎加代子氏の歌の伴奏、リコーダー奏者とのアンサンブルそしてピアノ連弾や2台のピアノデュオなどの演奏活動を始めました。
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3年前にはボランティアではありますがイギリスのロンドンとコッツウォルズの教会でピアノデュオとリコーダーのコンサートを催しました。聴衆のみなさまにも音楽という世界の共通語で語りかけることができ演奏後に心がひとつになった時の感動は今でも忘れることができません。これからも一期一会を大切にしてコンサート活動を続けていきたいと思います。 |
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【2011年掲載】 |
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異色の陶芸家 |
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劉 長炬(りゅうちょうい)(35回生)
■ Profile ■
御影高校卒
神戸大学経営学部(II)卒(加護野忠雄ゼミ)
加西市・有田窯・松本三男氏に師事
神戸芸術文化会議会員
現在、神戸南京街で一般対象に「北野工房創作陶芸教室」を主宰、各地で個展
を中心に活動中。来年で個展20周年となります。
昨年より「陶+」(トータス)という企画でイラストレーターのAKKUN氏や現代美術の堀尾貞治氏等、他分野のアーティストとコラボし陶芸の可能性を追求しております。
北野工房創作陶芸教室のホームページ
http://www.kitanokoubou.com/tougei/ |
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元々は美術が好きで、小中は美術部でした。高校では美術を選択したものの、大学は経営学部で普通にインテリア系の商社に就職しました。
しかし、社会に出て、ただただ人の作った物を販売していると、漠然とではありますが、自分で何かを作りたいという欲求が日に日に強まって、そこで出会ったのが陶芸でした。
近くの文化会館での初心者向けの陶芸教室でしたが、一・二度通っただけで、自分がやりたかったものはこれだと思いました。その後、教室のOB会で助手のような事をして、やがては独立し、自らも教室を開き、今日に至りました。
今になって思うのですが、人間というのも、元来は裸足で大地を踏みしめてきた生物であったのに、ある時期からは靴を履き、都会では地面は舗装され、「土」とは随分距離を置いた日常になっています。それ故、人には潜在的に土に触れたい欲求を押し殺してきたのではないでしょうか。
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人が陶芸やガーデニングを楽しんだりするのはその反動だと思います。経済面を含めて、生活としての創作活動というのは、意外とストレスがあるものですが、土と向かい合っている時間は無心になれ、精神的にも癒されている事を感じます。今の自分には何物にも変え難い貴重な時間ではあります。
昨今、長引く不況やデフレで陶芸に限らず芸術全般が非常に低迷しており、展覧会を開いてもなかなか売れず、教室を開いても寂しい状態が続いております。しかし、そういう時世でこそ、人を和ませ癒す芸術という物が必要な気がします。多くの作家が控える中、昨年はグループ展を含めると13回展覧会を持ちました。「ヤケクソ」とも取られがちですが、逆境も逆手に取ると、いまこそ自分を高める好機と思うようにしております。
因みに、展覧会には在学時にお世話頂いた美術の中西和夫先生もしばしばお出で頂いており、今でも色々と御教示頂いております。 |
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【2011年掲載】 |
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外務省から宮内庁へ |
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小町 恭士(16回生) |
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■ Profile ■ |
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1946年 |
岐阜県生まれ。御影高校 京都大学法学部を経て |
1969年 |
外務省へ入省。在ソ連大使館、在米大使館、在英大使館勤務、などを経て欧州局長、官房長を歴任 |
2004年〜
2007年 |
オランダ大使 |
2008年〜
2010年 |
タイ大使 |
2011年 |
東宮大夫に発令 |
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一昨年、42年にわたる外務省生活を終えてやっと白由の身になれたと喜んでいたら、去年7月はからずも東宮大夫として皇太子ご一家にお仕えすることになりました。
振り返って長かった外務省生活の中で最も思い出に残っているのは約20年前の冷戦終結とソ連邦崩壊を体験したことです。
今世界がかかえる多くの問題がその頃から由来することを考えればこれを経験したことは一生の思い出でした。
外務省に入ってはロシア語を専門にするように言われた者にとってはなおさらであります。
今の世界は混乱していますがこのことはしっかりした価値体系を守っていくことの重要性を示していると思う昨今です。
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今回は、皇太子ご一家のお世話をする宮内庁東宮大夫職に就任した、小町恭士さんをご紹介しました。就任会見でも、「日本の将来にとり大変な立場になられる方、ご一家にお仕えする事になった。出来る限りのことをしたい」と抱負を述べられ各新聞でも紹介されております。同窓生として、活躍の情報が聞こえてくるのは本当にうれしい事ですね。清明会としても応援していきたいと思います。
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【2012年掲載】 |
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国際法務行政書士 |
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李 進華(34回生)
李国際法務行政書士事務所代表 |
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■ Profile ■
1987年4月 西武百貨店関西商事部 入社
【現 鰍bDG(景品の企画・製造会社での輸入品担当)】
2000年2月 行政書士事務所を開設
現在に至る
【事務所の紹介】
@李 国際法務行政書士事務所泣き寝入りしないためのビザ取得
http://www.zaitoku.com/
当事務所は年間百件以上の入管業務(在留資格【ビザ】更新・変更・認定、永住や帰化の申請、在留特別許可取得など)をこなしている行政書士事務所です。そこで蓄積された入管攻略のノウハウを駆使して在日外国人をサポートします。中国語での対応もしていますので依頼者の細かいご要望にもお応えしております。
A株式会社リーコンサルファーム
泣き寝入りしないための契約書作成
http://www.keiyakunavi.com/
10年以上にわたる中国ビジネスの豊富な経験と人脈を基に、対中進出を検討中もしくは既に中国でビジネスを展開している企業様のお手伝いをいたします。
最近では対日進出される企業も増えており、中国語、英語等の語学力を必要とする仕事もお任せください。
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李進華(り・しんか)こと私は名前からも分かるとおり、華僑の本拠地・福建省生まれの中国人です。小学校1年生のときに、「日本でビジネスに成功していた親戚を頼って」両親と妹弟
共に日本にやってきました。
以来、神戸中華同文学校から高校にかけて姫路と神戸で野球少年として育ち、東京電機大学工学部卒業後、西武百貨店関西商事部に就職しました。その後日本国籍を取得して、1999年に香港で会社を興し
独立しました。しかし日・中のビジネス現場にて幾度と無くトラブルに遭遇し、問題解決に当たる役割を何度も経験をして参りました。
この私の有形無形の資産を生かした仕事をしたいという思いが、
8年前に「李国際法務行政書士事務所」を始める大きな原動力になりました。
では私の普段の仕事の何コマかをご紹介します。
(警察署へ留置者と面会) とある外国人が不法滞在化した後、永住者と婚姻し1年以上前に「在留特別許可」を求めて入管に出頭した。家宅調査も終え、後は結果を待つだけであった。
とある夜に外出し、自転車の無点灯を警官に職質され、そのまま留置される。
翌朝一旦釈放されるが、偽装パスポートで入国していることが判明し、再び呼ばれ、そのまま留置される。
起訴されれば判決が出るまで入管の審査は一旦停止される。
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(入管へ収容者と面会)
とある外国人が不法滞在化した後、永住者との離婚手続きを終えたばかりで、待婚期間の6ヵ月後に日本人と再婚する予定だった。
夜のお仕事中に客に扮した私服警官に逮捕され、警察署に一泊した後、入管に収容された。
本人はすでに帰国に同意しており、「在特」を求めて仮放免の申請はしないとのこと。
結婚する前に捕まってはもうだめだと観念しているようだ。
お客さんとは無理を言うものです。特に外国人にとって在留資格 【ビザ】は命に次いで(人によっては命より)大切なモノ。無茶を言うお客さんもいる。無理と無茶の違いは無理とはやろうと思えばなんとかなるもの。無茶は法外なことで一線を超すとヤバイ。
以上自説だが、サービス業とは無理してなんぼの世界、ではないかと思っています。
頭を使って、体を動かして、必要であれば経費も使う。
そうやってお客さんとの信頼を日々つないでいくのかもしれません。
そして、お客さんと嫁さんとは喧嘩しない……出来ればですが。
これが出来るようになったら本物なのですが……まだまだ先は長そうです。 |
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【2013年掲載】 |
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フードコーディネーター |
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友兼 由子(古谷)(35回生)
ケータリングサービス L.A.C代表
■ Profile ■
料理研究家、フードコーディネーター、「L.A.C」主宰。神戸のパティスリーやレストランで経験を積みながら、モロッコをはじめ北アフリカやアジア各国、ヨーロッパをめぐって、食堂やレストラン、一般家庭で料理を学ぶ。現在は神戸・東灘を拠点に各種パーティのケータリングやフードコーディネート、料理教室をおこなうほか、雑誌やWebサイトなどにレシピを掲載中。料理は生き方も教えてくれると日々実感しており、人生のテーマは「料理が先生」。神戸生まれ、御影高校卒、神戸在住。 |
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御影高校卒業後、大学には進学せず、住友銀行(現・三井住友銀行)に就職をし、当時は女子総合職もなく、内勤での銀行業務につき、配属が本店営業部だったこともあり、比較的ゆったりと恵まれた環境で、大勢の諸先輩方や同期生と共に過ごさせて頂いたと思います。とはいえ、何の経験も知識もなく、子供同然だった私が、社会人としての一から十を、厳しくたたき込まれ教わった銀行員時代は、今も私生活から仕事まで全ての礎になっているのだと思います。
その後、出産を機に退職をし、2人の息子に恵まれ子育てに忙しい毎日を送っていましたが、震災を機にもう一度社会に出る決心をし、一生かかってでも自分が打ちこめる仕事を、と辿り着いたのが「料理」の仕事でした。ただ、まだ幼い子供の世話や家事との両立は大変で、周りの理解もなかなか得られず、孤軍奮闘する毎日でした。限られた時間で、レストランやホテルの厨房で学べる事はすべて学ぼうと、がむしゃらに働いた30代でした。この頃、
タイ、ベトナムに研修に行く機会があり、これを皮切りに海での料理研修に何度か行きましたが、さすがにこの時は実家の母や夫に随分迷惑をかけ、頭を下げて協力をしてもらいました。その後、色々な方のご縁を頂き、働きながらケータリングの仕事を始め、そして独立をする事になりました。
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今は主にケータリング業と、雑誌などの料理撮影・レシピ制作、料理講師など、仕事の幅も徐々に広がり、オフィスもでき、手伝ってくれるスタッフにも恵まれ、16年がかりでやっとここまで来ました。
地元神戸を拠点に個人事業として、こじんまりと続けていますが、少しずつ温めてきたこの仕事は、2人の息子の子育てにも似ていて、人として、私自身を鍛え、育ててくれた様に思います。
次男が一昨年の春、大学進学と共に家を出て、そしてこの春、同じく御影高校卒業生の長男が就職のため家を出ます。自分勝手でわがままな母でしたが、それでも私の作る料理を毎日楽しみに食べてくれた息子たちには、有難うの気持ちでいっぱいです。この先、社会人になって、心が折れそうになる時もあるかもしれませんが、そんな時こそ、しっかり食べて、心と体にたっぷり栄養を補給して欲しいと思います。さて、母はこれからもうひと踏ん張り、新しい展開を目指して頑張ります。
今まで支えてくれた家族や、お世話になった方々に、いつも感謝の気持ちを忘れず、この先もずっとコツコツと料理と向き合っていきたいと思っています。 |
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【2013年掲載】 |
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私と彫刻 |
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植松 奎二(17回生) 彫刻家 |
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■ Profile ■
彫刻家、箕面市在住
神戸市出身、御影高校卒業、昭和49年神戸市文化奨励賞を受け、当時の西ドイツに渡独、デュッセルドルフを拠点に創作活動を展開、昭和63年ベネチアビエンナーレ日本代表、平成2年神戸須磨離宮公園現代彫刻展大賞、平成9年中原悌二郎賞優秀賞など数々の受賞歴を有し、現在、日本とドイツを拠点に国際的なアーティストとして目覚しい活躍をしている。インスタレーションの先駆的な作家として、人間と地球と宇宙への素朴な関心から、重力や引力物と物との間にある、見えない力の関係や働きを視覚化するその造形は国際的に高く評価を得ている。多数の個展、グループ展を積極的に開催しているほか、その作品は兵庫県立美術館、カルティエ現代美術財団、国立国際美術館、神奈川県立近代美術館、ストックホルム国立近代美術館などに多数収蔵されており、神戸市の野外彫刻としても設置されている。また、神戸ビエンナーレ2009では招待作家として神戸港会場に防波堤やドルフィンといった港の資源と景観を最大限に生かした作品を制作するなど、神戸の文化芸術の発展に貢献している。
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大学を卒業して作家活動を始めた頃から40年以上になります。その間1975年から1985年まではドイツ、デュツセルドルフに住んでヨーロッパを中心に活動していました。1986年からは日本とドイツを行ったり来たりしながら制作と発表を続けています。その間つねに興味があったのは原初的な事柄についてです。一つの場、一つの空間になにかものをつくりだし、一つの磁場みたいなものがつくれたらいいなあと思いながら制作して来ました。
古代人の残したドルメン、メンヒルといった巨石文明やエジプトのピラミッドやペルーの地上絵など今生きている人間にとって不可解なものへの興味や地球の重力や引力、その様な関心から見えない力や重力、ものとものとの関係を彫刻のテーマにしてきました。
ヨーロッパの美術館や日本の美術館にコレクションされた作品も何点もありますが、ここ阪神間に何点か私の作品がありますのでここに書いてみます。1990年に神戸ハーバーランド跳ね橋近くに赤い円錐体と自然石で作った6m程の「浮くかたち―赤」これは須磨離宮公園現代日本彫刻展で大賞を受賞したもので地震でも毅然と立ち続けていました。
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一見重力に逆らっているかの様な作品は危うさを孕んだ均衡を保ち緊張感ある空間を作り出しています。2006年に兵庫県立芸術化センター前の公園に高さ7mの「花のように―螺旋の気配」をブロンズと石柱でつくりました。阪神岩屋駅近くのB Bプラザ内吹き抜けに今も展示されている黒々とした鉄の彫刻など。
これらの作品には私の仕事の原点みたいなものがあります。 人間と地球と宇宙への素朴な疑問と興味からつくられた磁場があり、多くの人々と一緒に見ることの新鮮な驚きと発見を共有出来る場がつくれたと思っています。作品が一つの時代の証言であり次の時代を予感させるように時代を超えて永遠に息づくような作品をこれからもつくり続けていければいいのにと思っています。
今年3月〜6月頃 国立国際美術館、大阪のコレクション展に高さ5mの作品を、4月〜7月大原美術館、倉敷の「大原現代」展にも出品します。 |
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【2013年掲載】 |
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和の心を次世代へ |
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奥野 京子(11回生)
山水流舞踊家元山水隆京 |
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■ Profile ■
山水流舞踊家元
キングレコード吟詠剣詩舞会兵庫支部相談役
神戸芸術文化会議会員
明石伝統芸能協会理事
生涯学習市民講師
1970年 夫である故・山水隆丞が山水流詩舞を創流
その指導を受け、門下生の育成や創作舞踊に出演
1981年 ハワイアロハウイークに出演
1984年 中国北京民族文化宮にて日中文化交流会に出演
1989年 神戸市制100周年フェスティバルに出演
2003年 野村万之丞演出の女狂言に出演
2008年 山水流舞踊二代目家元襲名
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御影高校3年在学中に「高校生だけのオペラ」を市丸敏子先生が企画・指導され、当時の各新聞に取り上げられました。
私は主役の「タカの乙女」に抜擢され、その時のレッスンの厳しさや舞台の感動は現在の私の血肉になっているのかも知れません。1970年神戸布引山麓の山紫水明の地で夫によ
り創流された山水流は、剣舞・詩舞を根幹にしつつ日本舞踊の修得と共に更に幅広い芸域へと精進して参りました。毎年の発表会では、幅広いレパートリーをご来場の皆様にお楽しみ頂きつつ、各地の門下生の指導に、まさに二人三脚で東奔西走しておりました。しかしながら、6年前の11月師でもあった夫は闘病の末他界し、会員数も減少しました。翌年2月に予定していた初舞会を急きょ「宗家を偲ぶ会」と「二代目家元引き継ぎ式」に切り替え、新作の振付や、会員を引っ張っていくのに必死で奈落の底からもがくような日々でした。
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多くの方々に支えられ積み重ねてきた幾星霜。
現在では三男と四男が副家元として流儀を支えてくれ、また 孫たちも素直に稽古に取り組み数々のイベントに出演しており ます。同じ御影高校卒業生の長男夫婦や長女とその娘も発表当日は全面協力で手伝ってくれます。また会場には清明会諸兄姉の方々が観客として変わらぬご声援を下さり、大きな励みとなっております。昨年、私は市民講師として小学校の授業で「和の学習」を伝える機会があり、扇の扱いや立居振る舞いの指導を致しました。いきいきと楽しそうに練習する児童たちの姿に伝承していく大切さを改めて感じたのでした。
来年度は山水流創流45周年記念公演を予定しております。
稽古とは、すべて自分との闘い。没我の境地で舞台が務めら れるよう、終わりなき道に挑戦は続きます。「和の心」精神文 化としての芸の道は次世代に脈々と受け継がれようとしており、そのバトンを渡すまで頑張って参りたいと思います。 |
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【2014年掲載】 |
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バトンドールの仕掛け人! |
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古薮 啓介(35回生)
江崎グリコ株式会社事業開発部
オフィスグリコ推進部部長 |
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■ Profile ■
御影高校卒業後、関西大学社会学部に進学。社会心理学専攻。
1988年卒業。同年より、江崎グリコ株式会社に入社。
営業本部近畿統括支店・首都圏統括支店・市場開発チームなどの部署を歴任し、2006年より事業開発部長。
2013年よりオフィスグリコ推進部長(現職)。
これまでに全国17店舗のグリコのアンテナショップ「わくわくショップぐりこ・や」の店舗開発・商品開発。デパ地下スイーツへの初進出のブランドとなった「バトンドール」のプロジェクトリーダー。現在は日本初の〜職場でのリフレッシュメントサービス〜「オフィスグリコ」の事業責任者として携わる。
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御影高校35回生の古薮です。御影高校には1980年から3年間お世話になり、その時の体験したこと、出会った友人が一生の宝物になって、現在の私の人生を支えてくれています。
大学卒業後1988年に江崎グリコ株式会社に入社し、営業・商品企画・販売促進・新規事業等の様々な経験をさせてもらっています。
御影高校での15歳からの3年間で育んだ「周りと一緒に創り上げる喜び」「友情」「前向きな気持ち」…そんな感性がいろんな場面で自分自身を助けてくれました。「仕事」というものを通じて学び、苦しみ・そして喜びも時々与えられ、気づき、自分自身を大きく成長することを実感できる喜びは、やっと40歳半端で感じられるようになり「私の仕事。私のグリコ」という想いが心の中に芽生え始めました。
その象徴として体験できた仕事の一つが、今梅田阪急百貨
店本店と高島屋大阪店の2店舗限定で販売している「バトンドール」の取り組みでした。グリコ社長である江崎から常々「あんなところにもグリコ・こんなところもグリコを実現しなさい」と指示を受けている中で、チームで「人が集まる場所にグリコ商品を!」をミッションとして取り組み、「カーディーラーでの販促」や「携帯電話会社とのコラボ」、「航空会社での機内サービスにグリコ」等が実現。生活者の皆さんの素敵な笑顔が生まれたのはとても素晴らしい体験となりました。
その中でデパ地下での挑戦は、ちょうど梅田阪急本店の2012年10月の大きなリニューアルオープンの3年前に高島屋
のバイヤーとの会話が起点になりました。
「高島屋と阪急での両店で、グリコとして初出店してもらえないか。それをP O C K Y で」
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■メーカーである我々にとって、365日販売し続ける「直営店」と いうトライアルが可能かどうか。事業として採算が取れるか。
■皆さんに愛されている「P O C K Y」を、百貨店で通用する商品開発が出来るか。
■高価格・高付加価値の商品が生み出せるか。
この3点に大いに悩みました。常に食品スーパーで100円〜 200円の価格ゾーンでご愛顧頂いているポッキーにとっては、 大きな挑戦。やりがいのあるチャレンジでした。
@既存のスーパー等のマーケットと差別化する上で、デパ地下では「POCKY」を使わずに別ブランドを一から創り上げよう。フランス語で「黄金のスティックと意味する【バトンドール】にしよう。
A発酵バターをふんだんに使った「風味あふれる究極のスティック」を生み出そう。賞味期限は3週間。価格が高くてもご支持 いただける商品を作ろう。
B軌道に乗るまでは、この2店舗に集中して取り組もう。多店舗戦略は考えないようにしよう。プロジェクトチームを作り、約2年間の時間がかかりましたが、2012年10月に「グリコ初のスティック専門店 【バトンドール】」が開店することになりました。
お陰様で開店以来、2年を経過しましたが、毎日列が出来 るほどの人気を頂き、毎日「完売」の状態を創って頂いております。ただただ感謝です。
現在は日本初の職場でのリフレッシュメントサービス「オフィ スグリコ」の責任も担い、我々が目指す「おいしさと健康」を実 現すべく、御影高校卒業生として元気に明るくやっております。
これからも大切な母校御影高校の発展を祈念し、そこで学 んだ卒業生としてしっかり生きていきたいと思います。 |
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【2014年掲載】 |
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BravoLab.芦屋セラピスト |
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大窪 順子(39回生)潟uラボーラボ代表取締役
■ Profile ■
株式会社ブラボーラボ 代表取締役/ディレクター
御影高校、甲南大学卒業後、大手建設会社に勤務
2011年BravoLab.芦屋、2012年株式会社ブラボーラボ設立
美容、健康のトータルワークサロンの経営、施術、セミナー等の企画を行う
趣味はマラソン、ロードバイク。
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大学卒業後、大手建設会社の秘書室に勤務し、その頃は何かやりたいこともなく、ただ平凡にOL生活を楽しんでいたところ30代手前で「ふとこれでいいのか?」と思い、退社しました。その頃、趣味で通っていたフラワーアレンジメントの国際資格を取得し、フリーランスで活動したものの、この仕事を10年後もやりたいか?と思うとこれも違うような気がして彷徨いました。
OL時代にストレスからニキビ、肌荒れなど肌のトラブルに悩
まされてスキンケアの勉強をしていたことから美容の業界に進み、肌が変わることで、外面的な変化はもちろん、内面的に気持ちが変わり、表情が変わりました。自分自身がそうであったように、私がアドバイスをさせて頂いたお客様が変わっていく様子がとても嬉しくて30代はがむしゃらに仕事と遊びを楽しんでいました。
しかし、40代を迎える頃から、出張が続くと疲れがとれない…、夜遅くまで遊んでると次の日に持ち越してしまう…、20代、30代のようにがむしゃらに夢中になれない、物事の考え方などにいろんな変化がでてくる、また40代って人生の半分を迎え、これからどう生きていきたいんだろう?と切ない気持ちを感じるようになりました。
いつまでもみずみずしい女性でいたい!イタリアやフランスのマダムのように、いくつになっても女性として輝き、愛に満ち溢れた毎日を過ごしたい!80歳になっても恋がしたい!
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そんな女性達の願いをこめて、女性のカラダに着目したトータルワークサロン【B ra voLa b.芦屋】を2011年に芦屋市東芦屋町にオープンしました。
癒しのアロマテラピー、カラダを芯から温める温熱療法、デトックスのDr.ボッダーマニュアルリンパドレナージと、お客様の悩みの改善に最も効果的な3種類のトリートメントを組み合わせご提案します。疲れたときには、人の手を借りて癒されたいですよね。疲れた顔をして来られた方が、ホッとして、いいお顔で帰っていかれるととても嬉しく、こちらまで癒されます。
また、トータルで健康で美しいカラダに近づくためには運動 や食事、知識がかかせません。そのためのワークショップや セミナー、パーソナルケアのアドバイスをしています。どのメニューも自分がお客様として通いたいものを集めました。
最近では何十年ぶりに再会した御影高校の同級生や卒業生の方が来てくださることも多く御影高校でのご縁にとても感謝しています。
また仕事を通じ、たくさんの方との出逢いやいろんなことを 経験することができ本当に幸せです。いつも支えてくれる家族やパートナー、友人に感謝の気持ちを忘れずに、楽しく続けていきたいと思っています。 |
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【2014年掲載】 |
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生涯現役の鍼灸・整骨治療家 |
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 森田 剛(43回生)
モリタ鍼灸・整骨院 院長
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■ Profile ■
平成6年 |
鍼灸師国家試験免許取得 |
平成8年 |
柔道整復師国家試験免許取得 |
平成10年 |
自然カイロプラクティック学院首席卒業 |
平成11年 |
モリタ鍼灸・整骨院開院(摂津本山・本院) |
平成14年 |
カイロプラクティック(バイタルリアクトセラピー)部門開設 |
平成19年 |
メディカル・フィットネスルームTMCC開設(摂津本山) |
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CO鍼灸・整骨院開設(京都烏丸御池・分院) |
平成22年 |
本山中学校メディカル・トレーナー部門開設 |
平成24年 |
メディカル・フィットネスルームTMCCリニューアルオープン |
〈ホームページ〉
●モリタ鍼灸整骨院
http://www.moritaseikotsu.jp/
●メディカル・フィットネスルームTMCC
http://www.tm-cc.jp/ |
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御影高校時代、僕はサッカー部に在籍していましたが、実はその時の監督が親父でした。親父が監督でやりにくい事が度々あり「入る高校間違えた…(悲)」と何度思ったことか(笑)
しかし厳しい親父の指導の元、精神力・肉体力ともにずいぶんと鍛えられました。今となっては僕の良い思い出の1ページになっています。そんな高校生時代に皆が大学を目指している中、整骨院の先生を目指そうと思った僕は、ある意味変り者であったと今思います(笑)
よく聞かれる質問があります。「どうして整骨院の先生になろ
うと思ったのですか?」その答えが高校生時代にあります。2年生の冬、サッカーの試合中に足首を骨折してしまいました。その時の整形外科の診断は「全治3ヶ月、ギブス固定を最低5週間必要です。春の総体の出場は難しい…」との事でした。「あかん、あかん何とか早く治したい…」と思った僕を親父が整骨院に連れて行ってくれました。そこの先生の言葉にビックリ「1ヶ月後には歩けるようにしたる!3ヶ月後にはサッカーできるよ!」でした。そして3ヶ月後には先生の言うとおりボールも蹴れるようになり、春総体の結果は兵庫県で準優勝となり近畿大会に出場できたこと、本当に良い思い出となっています。当時、高校生ながらに整骨院の先生が懸命に僕の足を治して下さった事に感動しました。そんなタイミングで親父からも「整骨院の先生になったらどうや?」と背中を押してもらったことも重なり、この道に進むことになりました。
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高校卒業後は専門学校で勉強しながら整骨院・整形外科で勤務して、現場での経験を積んでいきました。そして23歳の時に3年間、分院長として京都の整骨院の立ち上げを任せられ、ここでの経験は僕の礎となり、平成11年に今の摂津本山で独立開業してからは無我夢中で患者さんの治療を頑張ってきました。
治療を始めて23年になり、試行錯誤を繰り返して根本から体
を治すことを追求してきた結果、骨格(頭蓋骨・脊柱・骨盤)の調整は不可欠だという結論に達しました。そして「バイタルリアクトセラピー」という骨格矯正法を導入することで多くの難治な患者さんを治すことが出来るようになりました。
平成19年より運動療法(ストレッチ&トレーニング)を取り入 れようと隣の店舗でトレーニングジムを開設しました。
ピラティス・加圧トレーニング・ストレッチ等のマンツーマンの指導の効果は抜群で患者さんを受け入れる体制は万全となり
ました。僕の以前から描いていた治療院の体制を築き上げられ
たこと、本当に有難く思います。今働いてもらっているスタッフ は本より今まで頑張ってくれた旧スタッフ、そして治療の根本を
教えていただいた師匠、そしていろんな悩みを共有しアドバイス をしてくれた友人や家族に感謝の気持ちで一杯です。これから も慢心することなく初心を忘れず患者さんを診させていただこう と思っています。
治療家に定年はありません。一生涯現役で患者さんの役に立 つ治療家でありたいと思っています。 |
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【2014年掲載】 |
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いばら繁る みちをひらく |
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中山 一江(15回生)
シニアライフアドバイザー |
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■ Profile ■
シニアライフアドバイザー
「シニア生き活きネットフォーラム」代表
放送大学 生活と福祉学科在学中
御影高校卒業後、大手都市銀行に入行。
結婚27年目に夫が脊髄小脳変性症を発症。以来、介護生活10年。
「難病患者の会」でのボランティア活動を続ける。
2002年 |
『60歳のラブレターA』(NHK出版)にレター掲載される。 |
2003年 |
介護生活を描いた 『GOGOおばさんとバックオーライ』(東京図書出版会)を刊行。 |
2005年 |
介護生活とその後を描いた『 ハッピー介護の秘密(』AK企画)を刊行。 |
2007年 |
『 60歳のラブレターF』(NHK出版)に「三つのありがとう」を掲載される。 |
2007年 |
「60歳のラブレター作者の会」設立 会長となる。 |
2012年 |
『 GOGOおばさんのハッピー介護』(静岡学術出版)を刊行。
介護問題を中心に講演活動を続け「明るい介護」のネットワークづくりをライフワークとしている。 |
ホームページ 「GOGOおばさんのハッピー介護室」
http://homepage1.suisui-w.ne.jp/gogolady/ |
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御影高校を卒業して大手都市銀行に就職しました。職場で出会った夫と結婚し息子2人にも恵まれ順風満帆だったある日、突然に困難が襲ってきました。それは健康そのものだった夫の難病発症でした。初めて耳にする難病「脊髄小脳変性症」に夫婦で途方にくれました。難病とは治療法がなく様々な苦痛があり病状が進行していく病気なのです。「脊髄小脳変性症」の病型は数種類ありますが夫の病型は徐々に自律神経系統が侵され排尿排便、血圧、体温の調整ができなくなり、その上に少しずつ運動機能も失われ、寝たきり生活へと進行するのです。しかし意識は最期まで正常という極めて厳しい病態なのに、この病気だけではすぐには死ぬことすらもできない、という悲しい現実でした。セカンドオピニオンは勿論、親友のご主人が難病研究第一人者と知れば診断を受け、西洋医学で駄目なら東洋医学でなんとかと、この世に良い治療法はないものかと東奔西走しました。が、残念ながら全く効果はありませんでした。そこで、難病になったものは仕方がない、迎え撃つしかない、と決心しました。夫の発症は53歳でした。サラリーマン人生を全う出来ない無念さを察すると、どうしたらよいのかと戸惑う介護者の私は49歳でした。
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それから10年間が夫婦の闘病珍道中でした。悲しみを共有する妻が空元気を装うには出版が一番かと介 護中に「GOGOおばさんとバックオーライ」という闘病記を出版 しました。「我が人生前進あるのみ」が信条の私のニックネームは「GOGOおばさん」。その後ろから「チョット待て」と軌道修正やアドバイスをくれる夫のニックネームは「バックオーライ」。「GOGOおばさんとバックオーライ」は抜群の好コンビでした。夫の残した言葉「逆境の、妻の明るさ、気分晴れ」に今もなお励まされています。 その後「ハッピー介護の秘密」「GOGOおばさんのハッピー介護」 を出版しました。出版の反響でしょうか、大学、看護師養成学校、 難病介護ヘルパー講座、老人大学、その他の団体からテーマ「GOGOおばさんのハッピー介護」で講演依頼を頂きます。辛い話を明るく話す吉本風講演だと評価されているようです。御影高校校歌の歌詞「いばら繁る、みちをひらく」を口ずさみながら勇んで出かけています。夫の供養にもなり難病患者、介護者への理解が深まればとの願いからです。シニアライフの幸せのために私の活動が少しでも役立てればと張り切って過ごしている毎日です。 |
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【2015年掲載】 |
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作りつづけて |
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北島 庸行(35回生)
木工家 アトリエKIKA主宰
■ Profile ■
1989年 |
武蔵野美術大学 工芸工業デザイン学科
インダストリアルデザイン専攻 卒業
株式会社松山入社 |
1991年 |
ドイツ ブレーマーハーフェン駐在
Warrings(ヴァーリングス)社に出向勤務 |
1993年 |
2級建築士免許取得 |
1996年 |
株式会社松山退社
木工家 早川謙之輔(岐阜県 杣工房)に師事 |
1997年 |
兵庫県篠山市にてatelier KIKA
(アトリエ・キカ)開設 |
2001年 |
淡路島洲本市に住居、工房を移転 制作活動を続ける
HP・ http://www.kitajimanobuyuki.com |
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御影高校在学中はどの学年のクラスにおいても、又3年間在籍したラグビー部でも、個性豊かな友人達との出会いに恵まれ毎日が楽しく充実した日々を過ごす事ができたと振り返ること
が出来ます。放課後ボールを追って傷だらけになりながら暑さ寒さに耐え走り培った体力は今でも活きていると感じ、気の置けない仲間達と過ごした日々は掛け替えの無い青春時代の思い出であると共に今でも尽きることの無いエネルギーを得た時期でもあったと感じています。
その頃物作りの分野に興味を持ち始め、卒業後は美術大学に進学してデザインの勉強をした後に家具を販売する会社に就職、家具・インテリアデザイナーとして働き始めました。そこでは高い要求を持つ施主の方々との出会いが有り、さまざまな物作りの現場にも関わり、仕事へ向かう気持ちが大いに鍛えられたと思います。
またドイツの家具メーカーに勤務する経験やイタリアの見本市へ出向く機会などから更に刺激を受け、多くの物を見て知る程にもっと密度濃く物作りの中に身を置きたい、できれば自らの手で物を作りだす仕事がしたいと思い始めます。
そして‘95年の震災の年の暮れに退社を決意して岐阜県に行き木工修行を始めます。その頃既に30歳を過ぎていた事もあって、木を削り製作に向かう基本だけをだけを身につけ早々に兵庫県に戻ってアトリエを開設しました 。 |
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受注製作を主にテーブルや椅子などの家具類は勿論、器などの小物から建築工事の一部分まで力の及ぶ限り幅広い依頼に応えたいというのがそれ以来一貫した姿勢です。個人での制作活動と言うと自らの作品作りに勤しんでいると思われがちですが、デザイナーの経歴も踏まえ、ある依頼に対してより良い返答として製作をするというスタイルに今もやりがいを感じます。自由な作品作りもしたいと言う希望もありますが、それはもう少し晩年に取組もうと思っています。そしてその物作りの材料として選んだ木は自然素材であるが故の難しさがあり、扱いの易しい素材ではありません、しかし誠実に扱って丁寧に手を加える事でその本来持っている美しさを引出す事ができる素材であると思っています。「KIKA」という名前は漢字で書くとすれば「木華」、木を昇華させて良いものにしたいという思いを込めて、独立を決めた時にテーマであり目標とする思いを名前にしました。
高校生の頃美しいものに憧れ物を作る仕事に携わりたいと考え始め、その初志は形が変わりながらも持ち続けています。人に喜んでもらえて、自分も納得のいく物を作れるよう探究心を忘れずにいたい、そして50歳になった今、あと30年は「作る」仕事を続けていたいと思うのです。
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【2015年掲載】 |
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心をつなぎ幸せを届けるシンガー! |
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井上 まな(39回生)
音楽活動家
■ Profile ■
human note 公式ホームページ
http://www.human-note.com/
御影高校、神戸海星女子学院短期大学卒業後会社勤めをしながらも、音楽活動を続ける。
結婚後も、子育て、仕事のバランスをとりながら音楽活動を続けている。
2010年 human noteに所属。
メンバーとして年に数回コンサートに出演(ホームページURL ご参照下さい)。 |
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幼少の頃、日曜日になると父が大音量でジャズを聴いていました。その影響か?気が付けば音楽が大好きになっていました。高校の頃はちょうどバンドブーム。高校近くの音楽スタジオに毎日のように通ったものです。
若いころは、誰かのまね事。自分のエゴで歌う。ただの押しつけだったと思います。
短期間ですが当時お世話になっていた外国人バーでアメリカのアーティストの曲を歌った時、アメリカ出身の方々が一緒に歌い出し、私のマイクスタンドの前にはズラリと生ビールのプレゼントが。故郷を思い出されたのか?その辺は今でも分かりませんが、その時に初めて歌で人の心が動いた!と感じました。それからが止められません。中休みはあったものの、歌うことに魅力を感じ、現在もまだ歌っている次第です。
ライブで歌っている時、聴いて下さる方のお顔の表情が変わっていかれる瞬間を見ることがあります。笑顔になったり、涙されたり。もしかしたら、日々の生活に追われ、取り残されてきた隠された心(喜びや痛み)があるのかも知れない。それを解放するお手伝いが出来るのかも知れない。少しはストレスを発散してもらえるかも知れない。そんな風に思うようになりました。
今年は阪神淡路大震災から20年。街並みは新しく綺麗になりましたが、やはり昨日のことのように思い出されます。人の心はそう簡単に癒えるものではないです。
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1月には震災関連のイベントがいろいろなところでありました。テント村だった公園やご縁があり御影公会堂でも歌わせていただきました。そして、human note震災祈念コンサートでも。「しあわせ運べるように」はまだ歌えない方もいらっしゃいます。
そんな方々の心を少しでも癒すことができればと思いながら歌わせていただきました。
音楽学校を出た訳でもなく、自分なりに勉強してまいりました。 子育てや仕事もあります。普通の人。ですが、自分が好きで続けてきた歌を通して、何か出来ることがあるんじゃないか?と 思っています。一回一回のステージを大切に、聴いて下さる方々に響くよう、楽しい内容の時はより楽しく元気になるように、優しい内容の時はより優しく語りかけるように、その場に応じて歌えるよう精進して参ります。大きな事を考えている訳ではなく、まずは身近な方々へ。基本、地域密着でありたいと思っています。
実家が酒販店(東灘区)ということもあり、最近では灘の酒蔵の蔵開きや、地域のイベント等で歌わせていただいております(御影高校卒業生ならお分かりかと思いますが、阪神御影駅前の市場の中でも歌わせていただきました)。human noteメンバーとしても数々のコンサートに出演させていただいています。今後も歌える状態である限り歌っていきたいと思います。どこかで目にすることがあれば、お声かけ下さいね。
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【2015年掲載】 |
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ラジオから3ヵ国語で
ワクワクをお届けします |
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金 純(40回生)
FM COCOLO DJ
■ Profile ■
御影高校、甲南大学経営学部を卒業後、中国総領事館に勤務
その後渡米し、阪神淡路大震災を機に帰国
96年4月にFM COCOLOのアジア音楽専門番組でDJデビューし、現在はAFTERNOON DELIGHT(月−木)14:00−17:00を担当する
FM COCOLO DJプロフィール
http://cocolo.jp/service/Dj/index/12
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こんにちは。FM COCOLOのMEMEです。この場をお借りして、母校である御影高校での思い出と「今」のことを少し書かせていただきます。母校では3年間バスケ部に所属。午前6時前に起床しての朝レンから始まり、放課後、練習を終えて帰宅するのは午後8時頃。練習、食事、入浴、就寝で精一杯の日々。
もちろん宿題する時間もなく(って、いい訳ですが。笑)授業中はついウトウト。2年3学期までの通知簿平均点が3.8。バスケットボールに明け暮れ、ろくに受験勉強もせず迎えた高3の春。このままでは大学に行けない…大学へ行くには指定校推薦枠をもらうしか道はない!3年1学期までの合計点を平均してくれると聞き、一念発起。それまではいつも教室の一番前で居眠りし、先生に度々叱られていたのですが、なんと奇跡的に3年1学期のテストで学年1位!まさかのオール5を獲得!それを手に、担任の先生を脅し(笑)、甲南大学
経営学部を指定校推薦で入学させていただきました。このときのことは私が人生で最も必至のパッチで勉強したエピソードとしてたまに思い出しては、自分自身を鼓舞することがあります。二度と同じことはできませんが。笑。華僑であるというのもあり、大学卒業後は中国総領事館に勤務。その後渡米し、95年、阪神淡路大震災を機に帰国。そして、ある出逢いをきっかけにラジオの道へ。その出逢いというのも一期一会。たまたま出逢った方から、たまたまFM COCOLOで日本語、中国語、英語を話せる人を探してるからどう?と勧められ「やったことないし、無理だわ。」と不安を抱きつつも、番組プロデューサーにお会いすると、なんと!その3週間後にはマイクの前に座り、アジア音楽専門番組を担当することに。 |
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それから気がつけば約20年。ラジオを通してたくさんの学び、出逢いがありました。学びという意味では、知的好奇心豊かなリスナーのみなさんに、いかに、ワクワクしてもらえるような音楽と情報をお届けできるか、日々360度にアンテナを張り巡らせています。番組のある日はスタジオに行くと、まずはその日の朝刊各紙に目を通し、情報収集。選曲しながら、それぞれの曲をどのようにご紹介しようかと番組構成を考えます。これはとても楽しい作業で毎日が学びだと感じています。またラジオを通してたくさんのリスナーさん達やスタッフ、ゲストの方々と出逢えたことにも感謝。番組ゲストで最近一番印象に残っているのは2013年11月12日、ホテルから京セラドーム大阪へ車で移動中のポール・マッカートニーへの電話インタビュー。まさか私が音楽の神様とお話できるなんて!とインタビュー前の数日間は食事も喉に通らず、生きた心地がしませんでした。でも、そんな緊張感を察してか、ポールはとても優しく、しなやかにひとつひとつの質問に答えて下さいました。「Hello? I know it's a stupid question to ask but,am I really talking to Paul McCartney?(とても馬鹿げた質問だと思うのですが、あなたは本当にポール・マッカートニーですか?)」「Yea h , I t h i n k s o . L a s t t ime I looked into the mirror,it was him(! たぶんそうだと思うよ。 最後に鏡を見たとき、確かに彼だったからね。)」というジョークも交えつつ。今では天職だと感じるラジオの仕事。これから
もラジオからウキウキワクワクをお届けしていきます。御影高校OB,OGのみなさまとFM COCOLO 765でお逢いできますことを楽しみにしています。 |
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【2015年掲載】 |
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清明会70 周年記念募金のお願い |
平素より清明会にご支援、ご協力を頂きありがとうございます。お陰さまで、皆様方の善意の募金により総会参加者は増大し、学年会、クラス会も開催が活発になっております。
これらの会には皆様方からの貴重な募金を使用させて頂いております。毎年、皆様方にご協力をお願いしておりますが本年は清明会創立70周年にあたりますので、ぜひご協力くださいますようお願い申し上げます。募金は一口1,000円で口数はいくらでも結構です。 |
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事務局からのお願い |
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著作本寄贈のお願い |
母校の図書館に同窓生の著作本のコーナーを設置することを検討しています。
著作物を通じて卒業生の活躍を知ってもらうことで、後輩達の励みになればと考えております。
そこで、会員の皆様の中でこれまでに著書を出版された方は、一冊、清明会まで献本していただければ、幸いに存じます。 |
清明会会長 道谷 卓 |
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御影高校清明会70 周年を迎えて |
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前会長
萩原 孝治郎 |
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御影高校清明会70周年 おめでとうございます。同窓生の皆様には益々ご活躍のこととお慶び申し上げます。本年度5月までの6年間を会長という大役を任され、清明会の充実と在校生のために力になれたらとの目標を掲げ邁進して来ました。
そんな中2011年には東日本大震災があり、日本中が衝撃を受けた年でした。それと同時に御影高校創立70周年を迎える年でもあり、清明会としていろいろと提案させていただきました。また2015年の学区編成による、受験生減少の不安をどう解消する
かと、学校の空調設備設置を教育委員会に申し出たりと、予想以上に大きな課題が持ち上がりました。その度に清明会の皆様へ無理なお願いもし、生徒のためならばと、多大なるご協力をいただいたことを感謝いたします。
さて、子供たちをとりまく環境は益々厳しくなるものと思われます。清明会の皆様におかれましては、母校と母校の未来を背負って立つ子供たちの為にも、会への参加とご協力をお願いし、清明会の盛会を祈念しまして、新会長へバトンタッチさせていただきます。 |
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生徒活動後援会、ご協力のお願い |
高校生活において学習は勿論のこと、課外活動も豊かな人間性を育てる意味で極めて重要です。
本校では、PTA、清明会、松影会(元P TA会員の会)が協力して、課外活動を経済的に支援し、生徒活動の発展に寄与しております。 |
平成27年度活動成績
購入品他援助 |
全国大会出場: |
将棋部女子、馬術障害(個人)、水泳部、ラグビ−女子、新聞部 |
近畿大会出場: |
陸上部、水泳部、将棋部女子、放送部(アナウンス部門)、
馬術障害(個人) |
購入品他援助: |
天文用望遠鏡鏡筒1個、バスケットボール用デジタイマ1台、
体育用物置2台、コントラバスケース2個、皆勤賞用賞牌100個、
壁掛け扇風機2台及び修理費、近畿大会・
全国大会出場看板、
東北ボランティア宿泊費他援助、文化祭・体育館音響システムレンタル料、
体育館用大型扇風機4台、LEDパーライト2台、モースマンファゴット1本、
ティンパニーヘッド4個、バスドラムヘッド2個、
クロティル1個、クロティルシングルホルダー1個、アルトリコーダー1本
デジタル顕微鏡2台
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生徒活動後援会の趣旨をご理解頂き、
卒業生の皆様からの温かいご支援をお願いいたします。
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編集後記 |
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今年度より会報誌「清明」の編集委員長を拝命し、皆様の多大なるご協力によりここに創立70周年記念特別号が発刊できましたことに心より感謝申し上げますと共に、このような記念事業へ携わることができましたことを光栄に存じます。
清明会が創立されてから70年という歳月の経過の中で、学校の校舎は経年変化や震災により増改築が行われてまいりました。
卒業生の心の中で変わらず大切にしておきたい御影高校のシンボルである「松の木」について西方寺の住職様にご紹介頂くことができ、理解を深める機会を得ることとなりました。
また歴史の振り返りとして歴代の清明会会長・副会長を一覧としてご紹介できることとなり、母校の発展と卒業生の親睦に尽力された先輩方のご功績に改めて敬意を表する次第です。
また本号では新たに4名の活躍する卒業生「達人」のご紹介と、2006年から10年間で清明に掲載された「達人」24名を一挙にご紹介し、各界各所で活躍する卒業生の様子を興味深くご覧頂ければ幸いです。
本年度から始まりました学区再編により益々特色ある学校を目指すことが求められる中、これからも御影高校を卒業すればどのような人になれるのか、達人の紹介等を通じて発信し、御影高校発展の一助となる誌面作りを目指してゆきたいと考えておりますので、引き続き皆様のご支援とご指導をよろしくお願い申し上げます。 |
(39回生 編集委員長 小林 進) |
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