喪妻の記
第 18 代校長 三 木   肇  

哲学者三木清は 「人生は地獄よりも地獄的である。」 と述べている。 私は今この言葉を悔恨と悲嘆にさいなまれつつ噛みしめている。 御影の 14 年間を中心とした教職 38 年、 その後の第二の職場の5年を無事終え、 子供達もそれぞれに巣立ち、 孫達も元気で私達老二人は趣味に、 旅に、 交遊に、 充実した素晴らしい日々を送っていた。 兼好の云う 「存命の喜び日々楽しまざらんや」 の実践版であった。 好事魔多し。 今年2月 24 日午後台所で皿を洗っていた妻が、 突然 「お父さーん」 と呼んでばったりと倒れた。 それっきりであった。 心臓が肥大していて不整脈が少々あったが、 私達はそれを甘く見ていたのだ。 人の命の儚さ、 脆さ。 平穏で安泰で幸せな生活が突如暗転してしまった。 茫然自失、 40 年近く一緒に頑張って、 柱とも杖とも頼む伴侶が一言も云わずに逝ってしまった。 何か云いたかったろうなと思うたびに涙がこぼれる。  見るもの、 聞くものすべて世の中のものは色が変わってしまった。 罪悪感、 怒り、 自責の念、 孤独感、 寂しさ、 悲しみ、 むなしさが日々交錯する。 人生四苦八苦、 愛別離苦とか、 これを乗りこえるのが人生を生きることなのでしょうか。  "ふと亡つ妻まの後姿や春の宵"…肇

留学そして大震災
第 19 代校長 大 西 堯 哉  

御影高校に着任して、 まず取り組んだことの一つはオーストラリア、 パースのリーミング高校との、 ホームステイによる交換留学のことであった。 初年度は御影高校の生徒が夏休みの期間に3週間の日程で訪問し、 次の年の冬にオーストラリアからの留学生を受け入れるというものであった。 初めての経験であり、 戸惑うことも多かったが、 本校職員の熱意によって、 この計画は非常に大きな成果を挙げることができた。 そして、 次年度の受け入れには、 PTAや松影会の皆さんの絶大なる協力によって、 これも非常に充実した計画を実施することができ、 受け入れた留学生の諸君にも大いに満足してもらうことができた。  阪神淡路大震災に直面したのは、 私が御影高校に着任してから、 まだ1年も経っていないときであった。 2年生の諸君と共に修学旅行に出かけていたので、 麻痺状態の交通機関に心ばかり焦らせながら、 やっとの思いで御影に帰着してみると辺りの景色は一変していた。 街全体が潰滅しており、 何度見返してみてもこれが現実とはどうしても信じられない思いであった。 そして、 本校に避難してこられた 1700 人を越す人達との共同生活が始まり、 避難生活をしている人達の支援をしながら、 いかに生徒の学習を充実させるかに腐心したのであった。

御影之松
第 20 代校長 山 口 節 夫  

御影には校長としての2年間を含め、 計 11 年間勤めさせていただきました。 今は老朽化している体育館も、 当時は県下屈指の施設であり、 生徒会を担当しましたので、 この体育館を利用しての文化祭準備等、 体育館に対する思い入れは一入のものがあります。 校則をめぐって生徒会執行部と時には、 激しい議論をしたことも懐かしい思いがしますが、 それ以上に、 一人前の教職人としての自分自身の成長が実感できたとの思いが何よりも強い思い出であります。 素晴らしい先輩、 同僚教師、 校長、 教頭先生に出会い、 徹底的に自らの教育観を鍛えられ、 教科指導法についても厳しい指導を受けました。  平成8年、 校長として着任。 大震災を他校で経験し、 2名もの生徒の犠牲者を出すなど震災後の対応に追われ、 御影の状況については思いを馳せる暇がなかった中での着任でありましたので、 グランドに仮設校舎が林立している状況に足の立ちすくむ思いと共に 「御影」 再建のために、 全力を挙げるぞとの思いがこみあげてきました。 校舎再建にあたっては、 旧校舎玄関前の初代吉田校長の校訓碑を継承できるよう、 特に意を注ぎました。  新しい世紀を迎え、 御影高校が常緑の 「御影の松」 の如く、 永遠の充実・発展をと心から祈念しています。 (兵庫県高等学校教育振興会事務局長)


ガリ版印刷のころ
旧職員 広 田 成 章  

1960 年代に教職についたころは試験問題の作成はガリ版という手法であった。 英語の問題も鉄筆で謄写版を用いて行った。 ろう引きの原紙をやすり版にあて、 鉄筆でガリガリと書いてろうを落としてすかしを作り、 そのすかしを通して青いインクをにじみ出させてローラーで一枚ずつ刷っていくのであるが、 作業の終わるころは手も衣服もインクでよごれて困ったものだった。 出来上がった印刷物は手書きであり、 しかも英文は筆記体なので先生によって字体にくせがあり、 試験を受ける生徒には読み辛く、 迷惑なことだった。 しかし先生から生徒へ人間の温もりを伝えることが出来たように思える。  1960 年代の後半には、 特殊な用紙を用いて英文タイプライターで打ったものになり、 比較的見やすい印刷物を提供できるようになった。  私が御影高校に在任中 (1980 年代) は、 英文タイプライターを用いて白い紙にタイプし、 設問などの日本語はエンピツの手書きを加えたものになっていた。 そしてその後ワープロを用いるようになり、 いよいよコンピューター時代へと入っていった。  21 世紀はIT革命の時代である。 コンピューターによって、 能率よく、 便利な生活ができるようになるだろう。 しかし、 ガリ版印刷が人間の温もりを伝えていた時代をなつかしく思えるのは時代おくれの考えなのだろうか。

本校での想い出
旧職員 大 原 俊 徳  

昭和 59 年〜平成 10 年、 私の 40 年の教員生活の最後の 14 年間を過ごした御影高校の思い出は尽きない。  校門の正面にあった石碑と品位のある御影の松。 四季折々に目を楽しませてくれた中庭の木々。 時折小鳥が水を飲みに舞い降りて来た睡蓮の花咲く小さな池。 満開の桜の枝を跨ぎながら通った本館と2号館の間に架かっていた通路。 進路部長としての4年間、 殆どが進学する中で就職をしていった毎年 20 数名の生徒達。 1クラス 47 名の 11 クラスで 500 名を越えたマンモス学年の主任として3年間を共に過ごした本当に個性豊かだった 44 回生の生徒達。 着任した最初の1年に担任した 38 回生2年1組と、 定年前の最後の1年の 52 回生1年7組の生徒達。 そしてあの阪神・淡路大震災!あの朝、 歩いて登校した時に見た様々な光景。 総務部長として、 どう実施すべきか大いに悩んだ 47 回生の卒業式。 結局中庭で挙行し、 幸い晴天に恵まれ校舎に避難されていた人々からも一輪の花と、 暖かい拍手をうけながら去って行った卒業生達。  最後になりましたが、 総務部長としての5年間、 パッと明るく楽しくお付き合い頂き、 ご協力頂いた当時のPTA役員・委員の皆様に改めて心からお礼申し上げるとともに、 御影高校のますますの発展をお祈りしています。


御影 20 年
旧職員 榎 本 龍 宏  

昭和 55 年以来、 教員生活の半分以上の 20 年間、 四季折々の姿を見せる六甲山を眺めながら、 楽しく勤務させていただいた御影。 創立 60 周年おめでとうございます。  20 年間の思い出はたくさんあります。 なかでも着任時、 朝礼・集会等で多くの生徒が倒れるのをまのあたりにして 「体力」 をつけるためには何かをしなければと考え、 校長先生をはじめ多くの先生方のご理解を得て、 公立高校で最初のトレーニング場を、 昭和 56 年に作っていただきました。 それ以後は倒れる生徒も少なく、 部活動も活発になり全国大会へも多くの部が出場しました。 又これからの学校体育のあり方として、 グランドの狭い学校は体育施設の拡充が必要ではと考え、 昭和 58 年第2体育館・昭和 61 年部室・平成3年球技場の改修・平成4年プール改修・平成6年グランドの改修等多くの皆様のご理解をえて完成することが出来ました。 多くの施設を使用し体育授業で生徒の体力強化・生涯スポーツへの対応等を考え、 選択体育・100 分授業・ニュースポーツの導入を実施し変化の激しい時代の流れに対応してきました。 しかし残念なことに阪神淡路大震災で、 校舎・中庭等被害を受けましたが、 平成 10 年全てが復旧し 21 世紀に向かって、 古きよき伝統の上に新しいものを積み重ねようと出発したのです。 21 世紀にふさわしい学校を作られることを陰ながらお祈りしております。

山岳部と共に歩んで…
旧職員 亀 村 平 男  

10 年一昔とはいえ、 ついこの前創立 50 周年を迎え、 今また 60 周年の歴史を刻んだ。 時の何と速いことか、 「光陰矢の如し」 である。 その間、 私は山岳部の顧問として生徒と共に山歩きを重ねてきた。 今、 振り返ると 26 年の長きに至り、 我ながらよく続いたものと思う。 新入生が入部すると夏山目指して練習するが、 六甲山が目の前にある御影高校は地理的に恵まれている。 夏山が最初の体験となるが、 3000m級の北アルプスでは天候が全てである。 剣岳、 北穂高岳、 槍ヶ岳や白馬岳の山頂からの大パノラマを展望した時の感激は生徒の心にいつまでも焼き付いて残っていると感想文に記している。  平成8年栂池─白馬岳─鑓ヶ岳の後立山を縦走した 50 回生の夏山は快晴のもとで可憐な高山植物の花を見ながらたいへん楽しい山行であった。 鑓温泉の露天風呂つきのテント生活は忘れ難い。 露天風呂といえば、 平成4年 46、 47 回生の蓮華温泉、 平成6年 48、 49 回生の祖母谷温泉など極めて印象深い。 生徒は3回も4回も入って硫黄の匂いが体にしみついたと報告書に記していた。 しかし、 最後の 52 回生の立山は大荒れの天候で女子中心の1年生だけのパーティであったがよく頑張った。 26 年間1件の事故もなく終える事ができ、 感謝!!

夢追う日ぞ はるか遠く」
旧職員 千 葉   孝  

創立 60 周年おめでとうございます。 9年間勤務した御影高校での思い出が次々と浮かんできます。 本当に楽しく勤務できたことを今さらながら感謝しています。 「先生が生徒を支えることより、 生徒が先生を支えていることの方が多かった気がする」 と離任式で話したことを不思議に覚えています。 やさしくて、 心にゆとりのある生徒たちに囲まれ、 どれほど多くのことを教えられたことでしょう。 先日久しぶりにアルバムを見て御影の生徒の持つひたむきさ、 素直さ、 明るさの中での充実していたが故に、 あまりにも早かった時間の流れに驚いています。  41、 44、 47 回生の3年間に関わることができました。 とりわけ 47 回生の印象が強く残っています。 「思う自律、 頼む自制」 を信じて生徒の意志と能力を最大限尊重しようという担任団の姿勢を生徒も理解してくれました。 学年行事とりわけ修学旅行での生徒の力は驚嘆すべきものでした。 震災直後、 中庭での卒業式で感動と感謝と鎮魂の思いを胸に巣立っていった皆さん、 夢中だったあのころの熱い思いを失うことなく、 いつまでも 「おのがじしに、 行手えがき」 続けてください。

修学旅行先で迎えた震災の日
職員 北 川 英 基  

48 回生は、 大震災をスキー実習修学旅行の2日目に迎えた。 起床時間にテレビをつけると、 「神戸に大きな地震の模様。 詳細は不明。」 と報じていた。 電話に生徒の列ができたが、 運良くつながったものはごくわずかだった。 早速、 大西校長を囲んで 「不安を押さえるためにも、 スキー実習は続ける。 平行して情報を集め、 対策を立てる。」 との方針を決めて、 朝食の席で生徒に話した。 ほんの数名を除いて全員が実習に出かけ、 9クラス 360 名の行動に希望を持つことができた。  旅行社JTBの宮崎さんは、 支店ビル倒壊の中、 不通になったJRに代えてバスを集める手配やルート確認に不眠の努力をしてくれた。 宿泊したライジング・サンホテルは、 毛布、 食品、 ミネラルウォーターを、 バス会社は大きなポリタンクに飲料水を十数本も差し入れてくれた。 食事で集まるたびに、 こうした支援を伝えると、 生徒から自然に感謝の拍手が起こった。 神戸へ帰って 「自分たちも手伝うんだ。」 という決意が固まっていくようで、 力強く思われた。 生徒たちも、 持てるだけの食料品を買い込んでいた。  神戸トンネルを抜けて見下ろした神戸市街の煙は、 テレビの何十倍もの迫力があり、 学校周辺の倒壊家屋は私たちの胸を圧した。 言葉少なに入った清明会館ホールが、 大震災に立ち向かう 48 回生の、 本当の出発点だったようだ。

51 回生と修学旅行
職員 明 石 正 治  

学校へ久しぶりに顔を見せた卒業生に高校生活で何が一番の想い出かを聞くとまず修学旅行という。  51 回生も例年どおりに平成 10 年1月 15 日三ノ宮発、 専用列車で黒姫へ行くこととなっていた。  異常気象気味の、 南からの湿った空気と北からの猛烈な寒気との衝突は、 南信濃に異例のドカ雪を降らせた。  この季節の日本海沿いの北陸線利用を忌避したプランは完全に裏をかかれた形となった。  結果として中央線上松駅での予定外の車中泊、 中津川まで戻っての列車運転中止、 バスの臨時チャーターと予定外の事象が次々に発生した。  東海指令 (JR東海の列車無線で名古屋からである) も入ってくるが、 時期に応じた適切なものとは言いがたく判断に迷うこともあったが、 引率団の先生方と相談しながら車内放送で生徒の諸君にも状況を説明しながら、 急な食料とトイレの確保に走り回った。  生徒の皆も大いに協力的で、 落ちついており取材の新聞記者もあてがはずれたのだった。  自分たちで状況を察して先生に協力を申し出るこの人達の幸せを願わずには居られない。  同時に一緒に3年間を過ごすことのできた幸せを再び思い出している。

御影高校の想い出
職員 岩 田 正 敏  

平成7年から8年間、 私の教員生活の最後を御影高校で過ごすことができました。 この8年の間には色々な事がたくさんありましたが、 とりわけ 「阪神・淡路大震災」 は強烈な想い出として残っています。 3年の担任をしていたのですが、 生徒の安否の確認や、 大学と受験手続の交渉等を、 半分壊れた事務室で必死になってやっていました。 学校は体育館が避難所として使われ、 非常事態の様子でした。 そんな中で、 授業が再開されたのは、 本校の創立記念日の2月6日でした。 こんな状況の中で授業を受ける生徒達の真剣な眼差を見て、 さすがに御影の生徒だなと感じ、 教育の原点に触れた気持ちになりました。 また卒業式も、 体育館と2号棟の間の空間という屋外で行われましたが、 整然とした中にも、 卒業生達の母校御影に対する思いの滲み出る感銘深い式典であったことを覚えています。  少子化が進み、 教育の世界も色々と新しい波がおきてきていますが、 御影高校の良さを再認識して、 さらなる飛躍をして欲しいと願っております。

御影の松と「しだれ桜」
職員 中 川 宏 幸  

10 年前、 50 周年の記念行事の頃、 まだ旧校舎が建ち御影の松がそびえ、 池にはどこからともなく野鳥が飛来したものだった。  平成7年、 阪神淡路大震災。 御影高校も大きな被害を受けた。 直後からの避難所運営。 様々な痛みを持った様々な人々があちこちから集まってきた。 暗闇の中、 懐中電灯だけで過ごした夜。 不安、 失望、 悲しみ、 苦しみ……。  そんな中、 避難住民、 ボランティアによる炊き出しが始まった。 我々職員も手伝いや学校設備の管理などに追われた。 そんな時、 御影高校の生徒達が何か自分たちにできることはないかと集まってきた。 そしていつも明るく、 我々を、 住民を、 そしてボランティアでやってきた人たちまでをも励まし助けてくれた。  平成7年2月、 御影高校始まって以来初めての住民と合同の卒業式が屋外で行われた。 共に震災を戦った生徒、 職員、 住民によるこの卒業式は学校という枠を越えた大きな意味のあるものとなった。  60 周年を迎え、 震災の頃の生徒は皆卒業し、 御影高校も新しい校舎と共に新しい生徒と元の平和な学校に戻っている。 でも、 あの頃のことは忘れることができないだけでなく、 御影高校が存在する上で消すことのできない記憶となることだろう。  住民から寄付された 「しだれ桜」 が大きくなって再び野鳥が飛んでくる平穏な学校であり続けることを願って……。


(以上12編の御寄稿は、「御影高校60周年史・学校生活の思い出」より、編者、寄稿者の    許諾を得て転載したものです)